●国際歴史探偵の書斎から

■加藤講演「『国際歴史探偵』の20年

第六回(『本の街』2026年4月号)

パスタの「壁の穴」から覗くCIAから日本文学まで

● 文献資料の研究ではわからないが、インターネット・サーフィンで思わぬ貴重情報を得ることがある。私はパスタを、岩手から東京の大学へ入学して初めて食べた。スパゲティといえば渋谷・宇田川町の純喫茶のナポリタン、ちょっと贅沢が渋谷から下宿への帰路にあった道玄坂の「壁の穴」だった。

● 「壁の穴」は、イタリアンの老舗として残り、現在のホームページにこうある。

「1948年に横須賀走水海岸でCIA極東長官であるブルームと運命的な出会いをした成松孝安は、彼のすすめで渋谷区のブルーム邸で執事として、邸で行われた戦後史に残る「火曜会」で食事のサーブ。海外の一流シェフの料理を目の当たりにする。1953年火曜会が解散となり、ブルームの援助を受けて田村町に6坪のスパゲティ専門店「Hole in the Wall」を開店。桜の木のテーブルが3つとカウンターがあるだけの店であったが、洒落た雰囲気があった。

メニューはスパゲティA・B・Cの3種類で、Aはミートボール付きで、200円。Bは麺大盛りで150円。Cがレギュラーで100円。当時、東京でスパゲティが食べられる店は、他に帝国ホテルをはじめ3軒しかなく、ちなみに帝国ホテルは960円であった。100円スパゲティがアメリカ軍の新聞『スターズ&ストライプス』に紹介され、東京中の外国人が来店するようになった。」

● これは、パスタ専門店のウェブ上の宣伝文句であるが、歴史探偵にとっては、実に貴重な多くの情報がはらまれている。

食文化と軍用色の歴史の中のスパゲッティ

● 例えば食通ならすぐに、パスタの日本流入史に注目するだろう。イタリアではスパゲテイとは直系1.9ミリから2ミリのパスタを指すが、日本では断面が円ならばスパゲテイで、1928年にはマカロニ屋で国産された。広く普及するのは戦後占領軍の軍用食・缶詰で、帝国ホテルと「壁の花」が外食の先駆だった。1960年代に東京など大都市から広がるが、ミートソースとナポリタンがほとんどだった。

● バブル経済の1980年代が「イタメシブーム」で、レストランが林立し一般家庭でも食べるようになった、『壁の穴』は和風パスタを供した、と高度成長とパスタの関係が見えてくる。ここから同じく敗戦後のガリオア援助で学校給食を通じて広まるパン食との比較や、カレーライスなど陸海軍軍用食、日本人兵士の飢餓死の研究にもつながる。

占領期のCIAと吉田内閣、火曜会

● 「壁の穴」は、CIAポール・ブルームとの接点から始まった。このことは、春名幹男『秘密のファイル』(共同通信社、2000年、現新潮文庫)に詳しい。春名著の「初代のCIA東京支局長」には、成松が食事を供した「火曜会」のメンバーが出てくる。朝日新聞論説主幹の笠信太郎を中心に、松本重治(国際文化会館理事長)、松方三郎共同通信社専務理事)、浦松佐美太郎(評論家)、東畑精一(農業経済学)、蠟山政道(政治学)、前田多門(文相)、佐島敬愛信越化学取締役)が「8人のサムライ」で、常連である。時には吉田茂首相も出席して、内外の問題が話し合われた。

● 戦後占領期の吉田内閣ブレーンが、同時にCIA発足時の対日工作の担い手とうかがわれ、一人一人のメンバーが戦後改革・経済復興や新制大学発足に重要な役割を果たした。

● 私は、この八人の中で相対的に無名な、佐島敬愛をマークしている。岩畔豪雄を介した陸軍御用達総合商社昭和通商、陸軍中野学校とのつながり、三高山岳部を一緒に立ち上げた今西錦司と西北研究所、渋沢敬三をバックに岡正雄が活躍した日本民族学協会・民族研究所、その戦後民族学・文化人類学への継承、等々の物語につながるが、これらは別の機会に述べることにしよう。

● 火曜会から広がる日米占領期エリートの人脈は、ポール・ブルームや国際文化会館ばかりでなく、米国の「親日派」「ジャパン・ハンドラー」につながる。

ブルムは『点と線』を訳し、キーンに日本文学を勧めた

● ポール・ブルーム自身が、調べれば調べるほど興味深い。フランス人民戦線政府のレオン・ブルム首相とは遠縁で、ユダヤ系の父が貿易商で横浜居留地生まれ、戦時スイスで後のCIA長官アレン・ダレスのもと、藤村義朗・笠信太郎らの終戦和平工作に関わった。日本文化の理解者・収集家として知られ、松本清張『点と線』の英訳者でもあった。連合軍通訳で晩年に日本国籍を得たドナルド・キーンに、日本文学研究を勧めたのもブルムであった。

● 現在でもCIAは米国インテリジェンスの中心で謎が多い。ポール・ブルームが本当に初代のCIA極東支局長であったかについても異説はあり、「壁の穴」は火曜会の口止め料だったともいう。

 戦前立教大学教授・戦時米国陸軍日本語学校教師から戦後はG2ウィロビー将軍の下でゾルゲ事件解明に関わり聖公会牧師に戻って「清里の父」となるポール・ラッシュや、小泉八雲=ラフカディア・ハーンのマニアで恵泉女学院の河合道を介して天皇制存続に役割を果たしたマッカーサー側近ボナー・フェラーズらとの比較も興味深い。日本海軍のカレーライスも戦後沖縄のポーク卵も、軍用食起源である

● パスタの老舗「壁の穴」から広がる近現代史は、メニューも味付けも豊富で、無限大に広がる。

第五回(『本の街』2026年3月号掲載) 

九段下野々宮アパートの1937年末ーー岡田嘉子とアイノ・クーシネン

● 神保町界隈に詳しい読者なら、戦前軍人会館(現九段会館)の靖国通りをはさんだ向かいにあった、野々宮アパートを知る人もいるだろう。現在の昭和館向かいの北の丸スクエアにあった。

●  1936年に建てられた鉄筋コンクリート八階建て、一階が写真家野島康三の経営する野々宮写真館、中二階に受付レセプションとロビーがあり、訪問者はロビーで住人と会った。現在日本遺族会が運営する九段会館が、戦前軍人会館で2・26事件時には戒厳令司令部がおかれるなど数々の歴史ドラマの舞台になったように、訪日外国人と日本のエリート層が同居し、さまざまなドラマを呼び起こしてきた。戦時中は、木村伊兵衛が写真部長を務める東方社がアパート内に事務所を構えていた。空襲で焼けたが、戦後建物は接収され、GHQの家族向けアパートとして利用された。

● 建物も内装もモダンで三階から上がアパート、完全洋式の室内電話・バス・トイレ付で63室あった。家賃も銀行員の月収をこす月100円以上で、今風には超高級マンションだった。かつて加藤『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー、2002年)に建物写真・平面図入りで紹介したが、『建築雑誌』1936年11月号によれば、外国人20組、外国生まれの日本人2組、日本人28組が住んでいた。

● この野々宮アパートに住んでいた二人の女性、日本人女優岡田嘉子と、スウェーデン王室出身と称する作家「エリザベート・ハンソン」が、今月の主人公である。1937年12月末、二人は別々に、ソ連に向かった。前号で宮本百合子が「こわれた鏡」で礼賛していたソ連である。

 ハンソンことアイノ・クーシネンの三七年末ソ連帰還

● 作家エリザベート・ハンセンというのは、日本の宮中・貴族から情報を得るための仮の名だった。本名はアイノ・クーシネン、当時のコミンテルン幹部会員オットー・クーシネンの妻で、フィンランド人共産主義者だった。

● 1936年10月8日付『東京朝日新聞』社会面に、「瑞典の女作家再び来朝」という、短いが顔写真入りの消息記事が載っている。「二年前日本に来たスエーデンの女流作家リスベート・ハンソン女史(37歳)が今春、ストックホルムで発行した『微笑む日本』をお土産に秩父丸でヒョッコリ来朝、帝国ホテルに入った。」

● 同10月22日付には、「北欧の女流作家に微笑む東京の姿――第二の印象記、ハンソン女史寄稿」と、三段見出し・六段通しの大きい記事が載った。二段ヌキの大きな写真が、スウェーデン語のサイン入りで、微笑んでいる。曰く、「東京を初めて訪れた外国人は、余り澤山の事柄に心をひかれるのでその中からどれが一番大きな特徴だか別に取り分けるとは困難です。……東京は世界中で最も美しい都市になりつつあるといふことを断言します」――その後には、日本女性のキモノの美しさについての、歯の浮くようなほめ言葉が続く。

 「東京を初めて訪れた外国人は、余り澤山の事柄に心をひかれるのでその中からどれが一番大きな特徴だか別に取り分けるとは困難です。大きなビルジングの近代的建築、それは建築技術の最新語です。そして街や裏庭の清潔なことも初めて見てすぐ心をひかれます。驚く程幅の廣い通りや並木道、廣大な公園、運河、競技場などすべて大きな印象を与えました。東京は世界中で最も美しい都市になりつつあるといふことを断言します。」

 その後には、日本女性のキモノの美しさについての、歯の浮くようなほめ言葉が続く。ハンソン女史の本『微笑む日本(”Det Leende Nippon”)』は、確かに1936年春にストックホルムで書かれ、6月にはスウェーデン語で出版された。すぐに英語版(”Japan, Land of Smile”)も出された。著者は、あらかじめその本を、日本の友人たちに送っておいた。「特に誇らしく思ったのは、日本人の国民性と生活観に関するわたしの記述を賞賛した、日本のある大学教授からの感謝の手紙であった」と、著者は、30年後に、遺稿に記している。

●  実は、この本は、ハンソン女史の日本での「任務」がスムーズに達成されるように、彼女がストックホルムで執筆し、ソ連赤軍諜報機関GRUが手をまわして印刷し、刊行したものだった。ハンソン女史のことを書いた朝日新聞記者は「中野男爵」、この朝日の中野五郎記者と、英字紙『ジャパン・タイムズ』上原記者の二人が、ハンソン女史の日本での諜報活動の、主要な取材源だった。

● 彼女は実は、この時50歳だった。しかし、モスクワでは「コミンテルン一のコケーティッシュな猫」と呼ばれた、華奢で若く見える北欧ジャーナリストは、その美貌と教養で、日本の社交界でもてはやされた。やがて、皇居の園遊会に招かれ、天皇の弟秩父宮とも親交を結んだ。

● 1937年末、アイノ・クーシネンは、モスクワに召還された。それを伝えたのは同じGRU派遣のリヒアルト・ゾルゲであった。この時実は、ゾルゲ自身とゾルゲ・グループ全体も、モスクワに召還されていた。二人は、そのことで話し合った。アイノはモスクワ帰還を選び、ゾルゲはあれこれの口実をつくって東京に残り、なお四年ほど活動を続けることができた。

● アイノは、日本の官憲の目をごまかすことができたが、スターリンの目は、逃げられなかった。モスクワに戻ってすぐ、1938年1月1日、ソ連の秘密警察NKVDに突然逮捕され、夫オットー・クーシネンの反ソ陰謀を認めるよう脅迫されたが、認めなかった。アイノの夫オットーは、逮捕された妻を見殺しにして、ソ連での自己保身と延命の道を選んだ。だから64年に死んだ時には、ソ連共産党中央委員会政治局員まで、出世していた。

● 妻アイノは、15年のラーゲリ(強制収容所)暮しを強いられた。そのことで、二人の間には、いかんともしがたい亀裂が生じた。1935年に最後に話し合って以降30年近く、二人は離婚はしなかったが、二度と会うこともなかった。夫オットーは、1964年に没し、ソ連の国葬に付された。妻アイノは、葬儀の時だけ夫を失った喪主の役を演じ、そのまま生まれ故郷のフィンランドに戻った。1970年に没したが、滞日時代の回想を含む一冊の遺稿を残した。邦訳は、ソ連解体後1992年に『革命の堕天使たち――回想のスターリン時代』と題して出版された(平凡社)。

 

岡田嘉子と杉本良吉の「恋の逃避行」の始まりは?

● もう一人の日本人女優岡田嘉子の樺太越境は、「恋の逃避行」とよばれた。夫と子を持つ岡田と、妻が病気の演出家杉本良吉が、1937年12月27日に上野駅を出発し、雪の樺太国境を越えてソ連に「亡命」したが、直後に二人は検挙され、別々にされた。杉本は「日本警察の工作員」として拷問・自白のすえに銃殺刑になった。岡田嘉子も、晩年にようやく明らかになるが、10年の矯正労働判決を受けた。監獄でソ連の対日宣伝への協力を強制され、戦後は日本向けモスクワ放送で働いて、ようやく演劇の仕事に戻ることができた。

● 二人の不倫の恋は本物であったが、「新天地」と夢見たソ連は、幻想のユートピアだった。ソ連崩壊後に見つかる岡田の供述書では、戦争協力を嫌った岡田が共産党員杉本を誘ったとしている。しかし、かつて宮本顕治が公言し、ソ連崩壊後は口をつぐんだが、宮本から数年前に指令を受けた杉本が、有名女優岡田との逃避行をカモフラージュにした、日本共産党のソ連への秘密連絡の決行だった可能性も残されている。

● いずれにせよ、岡田も杉本も、宮本百合子と同じ「こわれた鏡」しか持っていなかった。杉本が自白で述べた演出家佐野碩への連絡が、佐野はすでに国外追放で不可能で、佐野の師であるメイエルホリドの「日本のスパイ」名目での粛清につながることは、二人とも予測できなかった。

● アイノ・クーシネンはゾルゲとは会っていたが、野々宮アパートで岡田嘉子と言葉を交わしたかどうかはわからない。全く同時期に野々宮アパートを離れ、ほぼ同時にソ連に入国し、直後に検挙されて不遇な後半生を送った二人の女性の軌跡は、偶然だったのだろうか。

●  岡田は、ソ連解体後の九二年、モスクワで波乱に満ちた生涯を終えた。享年八九歳だった。

〔参考)

「歴史における善意 と粛清」『季刊 窓』第19号、1994年

ヴィクトーリア手記の教えるもの」(『山本正美治安維持法裁判陳述集』解説、新泉社2005年7月刊)

<参考異文1 加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994>

 「ハンソン女史」の著書や『東京朝日』の記事を見て、その正体を知っていた男が、当時の日本に、すくなくとも一人いた。在日ドイツ人で、ドイツ大使館に出入りするナチス党員のジャーナリスト、リヒアルト・ゾルゲである。ゾルゲは、GRUの対日諜報団のリーダーとして、1941年10月、元『東京朝日新聞』記者・近衛内閣のブレーンであった尾崎秀実らとともに逮捕され処刑された。いわゆる「ゾルゲ事件」である。

 ゾルゲがハンソン女史を知ったのは、尾崎秀実からではない。尾崎は、2,26事件から日独防共協定締結にいたる36年夏、ヨセミテの太平洋問題調査会に日本代表として出席、元老西園寺公望の孫である西園寺公一とも親交を結んだが、たぶん、自分の勤める新聞に報道されたとはいえ、キモノに魅かれたスウェーデン作家のことなど、何も知らなかっただろう。

 彼女「エリザベート・ハンソン」の日本滞在は、正確には、1934年11月ー35年11月、36年10月から37年12月の、2年余りに及んだ。その間の「本国への里帰り」とは、「中野男爵」らに語ったスウェーデンではなかった。彼女は、本当はフィンランド人であった。ただし、「本国」とは、生まれ故郷のフィンランドでもなかった。それは、ソヴェト連邦で、そこには、世界的にも著名な夫が住んでいた。

ゾルゲ・尾崎事件における謎の女性「イングリッドまたはオリガ」

 『現代史資料』(みすず書房)全4巻にまとめられた「ゾルゲ事件」の記録のなかには、「エリザベート・ハンソン」は出てこない。

 代わりに、ゾルゲ・グループの無線技師マックス・クラウゼンの1941年12月24日第5回警察訊問調書のなかに、「イングリッド」という謎の女性が登場する。

 「此の女は昭和12年から13年にかけて数ヶ月九段の野々宮アパートに止宿した40歳位の美貌、金髪、小造りで、英語の発音から見て米国婦人と思われ、表面の職業は新聞記者だと想像して居りました。私も当時『ゾルゲ』の家で二、三回出会った事があります。彼の話によると、彼女は、日本の知名士から情報を取って居たさうです。電報には二、三回其の名が現れて居ますが、本当の名は存じません。それから私からは金は一回も与えませんでした。之れは『ゾルゲ』が知って居ると思ひます」(『現代史資料』「ゾルゲ事件・4」みすず書房、1971年、255頁以下)。

 他方、同じゾルゲ・グループのアバス通信記者ブランコ・ブーケリッチの「訊問終了に際しての警察意見書」(1942年3月4日)には、「被疑者[ブーケリッチ]は、‥‥『コミンテルン』の諜者バルト人『オルガ』なる婦人の勧誘に依り同[1932]年5月頃巴里に於て『コミンテルン』の系統に属する諜報団体に加入することを決意し、同年10月日本に派遣せらるることに決定」とある(同369頁)。

 日本の警察は、グループの取調べの段階で、1932年にブーケリッチをグループに誘い日本へ派遣した「オルガ」と、クラウゼンのいう37-38年日本にいた「イングリッド」とを、北欧系の同一人物と考えたらしい。

 そこで、主犯格であるゾルゲに対しても、「イングリッドことオリガ」として訊問した。ゾルゲは、たぶん、これ幸いと、1941年12月22日の大橋秀雄警部補の訊問に、オリガは5ヵ月しかいなかったとして、次のように答えている。

 「『イングリッド』或は『オリガ』。彼女は私に何等の通告なく中央から特別の使命を帯びて東京に来たのであります。しかし私は彼女が『スカンジナビヤ』に居た時から知って居り古い知合であります。

 私は彼女の使命が何であるかと云ふ事は知りませんが、しかし、私の信ずる処では何か軍事関係の使命を帯びてでも来たものと思ひます。しかし彼女は私並に私の『グループ』とは何等の関係を持つなと云ふ命令を受けて来て居りました。

 唯、彼女が電報を発送するときとか、手紙を出すときは自分のグループを通してやりました。それ以外私と彼女とは何等かの関係はありませんでしたが、彼女の東京に於ける財政状態が、非常に悪かったと云ふ事実からして、彼女は私に援助を求めて来ました。其後も彼女は数回私の所へ金の事で来て会ひました。それは滞在期間五ヶ月間に一ヶ月一度位の事であります。約五ヵ月後に私宛に送られた電報に依って欧洲に呼び帰へさせられました。しかし彼女はその使命を果たす事が出来なかった様に思ひます。東京に滞在中は、帝国ホテルに二ヶ月位、後に野々宮アパートに三ヶ月位滞在して居た模様です」(「ゾルゲ事件・4」136頁)。

 ゾルゲは、いわゆる「第一手記」(警察側がまとめたもの)では、次のようにいう。

 「『オリガ』と云ふ『スエーデン』人に就いては先に申上げてあるが此の女は確か1937年か1938年に上海から来て数ヶ月間帝国『ホテル』に宿泊して居た年齢は40歳位に為ると思ふが現在は何処に居るか解らぬ」(『現代史資料』「ゾルゲ事件・1」みすず書房、1962年、133頁)。

 予審訊問段階で、クラウゼンは、なおも「イングリッド(オリガ)」を「グループの成員」と供述したが(『現代史資料』「ゾルゲ事件・3」みずず書房、1962年、156頁)、ゾルゲは、「協力者とは云へません」と断言し(「ゾルゲ事件・1」351頁)、以後の裁判の過程では、「イングリッド」は、もはや問題にされることはなかった。

当時の日本の警察側は、この件を、次のようにまとめた。

 「『ゾルゲ』一味と他の諜報組織との間には何等横の交渉関係無くモスクワ中央本部に直属し、これと縦の関係に於てのみ連絡するのみと認めらるるも、‥‥又『イングリッド』なるもの東京に派遣されたることあり、何等かの特命を帯びて活動せるものの如く、偶々『ゾルゲ』とは在『スカンジナビヤ』当時共に活動したる旧知の間柄なるため、個人的にしばしば『ゾルゲ』を訪れ、資金の融通を受くる等のことありたるも、その活動の内容等は一切これを秘めて語らず、『ゾルゲ』一派と連絡することを絶対に避けるよう指令され居たる趣きにして、約五箇月程滞京の後欧州に退去したる事実もあり、『ゾルゲ』一派の他に之と類似の組織あるに非らずやとも思料され、[モスクワ]中央本部に於ては各組織よりの情報を比較綜合して、之を取捨選択するものと認めらるることは大に注意すべきものなり」(「ゾルゲ事件・1」98頁)。

 当時の取調官大橋秀雄警部補は、戦後の覚書のなかで書いている。

 「イングリットことオリガ(女姓)。ゾルゲとはスカンジナビヤ時代からの知り合いで、モスコーから軍事関係の特別使命を帯びて来日したが、在日五カ月で欧州に呼び返された。ブケリッチがパリで日本行きを勧誘された『オルガ』と同一人物か否かは確認されていないが、ゾルゲは同女に対しスパイ団の活動資金の中から援助していたので、ゾルゲグループと無関係ではなかったと思われる。オリガのことは、ゾルゲは自供していなかったが、クラウゼンがゾルゲの命令で金を渡したことを自供したので判明した」(松橋忠光・大橋秀雄『ゾルゲとの約束を果たす』オリジン出版センター、1988年、162頁)。

ハンソン=イングリッドは、コミンテルン幹部会員の妻だった

 実際は、ゾルゲは、「イングリッド」はもちろんのこと、「ハンソン女史」の正体も、よく知っていた。なぜなら、二人は同一人物であったから。というよりも、どちらも偽名であったから。

 「オリガ」は、おそらく「イングリッド」とは別人だった。なぜなら、「オリガ」がパリでブーケリッチを日本諜報団に引き入れた時、「イングリッド」の方は、アメリカで活動中であったから。もっとも、そのことを、上海にいたゾルゲは知らないで、同一人物と考えたかもしれない。諜報員は、互いの活動歴を語らないのが鉄則だという。

 なお、最近NHK取材班が発掘した証言に出てくる、1933年にモスクワでゾルゲと共に日本での諜報活動の訓練を受けていたというドイツ人「オルガ・ベルナール」「オリガという女性」が、ブーケリッチを勧誘した北欧系諜者オリガと同一人物かどうかは、まだ確認されていない(NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店、1992年、66頁以下)。

 「イングリッド」とゾルゲは、たしかに「旧知の間柄」だった。なぜなら、「スカンジナビヤ」以前に、モスクワで、家族ぐるみの交際をしていたから。というよりも、ゾルゲのかつての直属上司が、彼女の夫で、コミンテルンの高官であったから。

 そのゾルゲの上司の名前は、ゾルゲ事件の調書には、「イングリッド」よりも、はるかにひんぱんに登場する。「クージン」または「クーシネン」という名で。ゾルゲは、1919年にドイツ共産党に入党したが、クーシネンは、マヌイルスキー、ピアトニツキーと共に、25年にソ連共産党に転籍・入党するさいの、保証人の一人であった。

 つまり、「イングリッド=ハンソン女史」の本名は、「アイノ・クーシネン(1886-1970)」であった。本当はフィンランド人で、彼女の夫オットー・クーシネンは、当時の世界共産党、コミンテルン(1919年創立)のフィンランド共産党代表、コミンテルン幹部会員であり、ゾルゲがモスクワでコミンテルン機構の活動を始めた当時のコミンテルン情報部長であった。オットー・クーシネンは、日本共産党の「1932年テーゼ」作成を主導した、理論家としても知られている。

 アイノ・クーシネン自身は、「コミンテルンいちばんのコケティッシュな猫」とよばれた、魅力的な女性であった(ルート・フォン・マイエンブルク『ホテル・ルックス』晶文社、1988年、139頁)。実際は、1934年から37年末まで、日本でゾルゲと似たような諜報活動を行っていた。『東京朝日新聞』の記事や『ジャパン・タイムズ』への寄稿も役立ったのだろうか、皇居の園遊会に招かれたり、秩父宮に会ったりしている。

 アイノとゾルゲは、無論、モスクワ時代からよく知り合っていた。アイノの日本での任務の直接の指令者、モスクワとの連絡窓口、活動資金の出所は、ゾルゲと同じく、ソ連赤軍第四本部ベルジン将軍であった。ただし、アイノは、ゾルゲとは別個の任務を与えられ、別個に活動していた。ゾルゲのいうように「軍事情報」に特化していたか否かは不明だが、また実際に重要な情報を送れたかどうかも彼女の回想だけではわからないが、アイノ・クーシネンは、ゾルゲと同格の国際諜報員であったろう。

 ただし、1937年末、東京のアイノ・クーシネンは、モスクワに召還された。それを伝えたのは、リヒアルト・ゾルゲであった。この時、実はゾルゲ自身とゾルゲ・グループ全体も、モスクワに召還されていた。二人は、そのことで話し合った。アイノは、モスクワ帰還を選び、ゾルゲは、あれこれの口実をつくって東京に残り、なお四年ほど活動を続けた。ちょうど第一次近衛内閣のもとで日中戦争が本格化し、国民精神総動員運動や企画院設置で重要になった尾崎秀実経由の情報収集が、軌道に乗り始めていた。

 アイノの方は、日本の官憲の目を完全にごまかすことができたが、スターリンの目は、逃げられなかった。モスクワに戻ってすぐ、1938年1月1日、ソ連の秘密警察NKVDに、突然逮捕された。これは、当時ソ連中で荒れ狂っていた「スターリン粛清」の嵐が、コミンテルン中枢部にまで迫った、一つの象徴だった。

 獄中のアイノは、ソ連の秘密警察に夫オットー・クーシネンの反ソ陰謀を認めるよう脅迫されたが、認めなかった。

 ゾルゲの方は、日本で時の権力中枢にくいこみ、歴史に残る諜報活動を進めたが、1941年10月に逮捕され、44年11月のロシア革命記念日に、東京で死刑台へと送られた。もしもゾルゲが、アイノと一緒に1937年末にソ連に帰国していたら、その処刑の場所は、東京ではなく、モスクワになっていただろう。ただし、NHK取材班の最近の調査によると、ゾルゲの妻というべきロシア人女性カーチャは、1942年に「ドイツのスパイ」として逮捕・粛清され、翌43年に流刑地で死んだことが、KGB文書館資料で確認された(『国際スパイ・ゾルゲの真実』69/252頁以下)。日本の獄中のゾルゲは、そのことを知る由もなかった。

 アイノの夫オットー・クーシネンは、逮捕された妻を見殺しにして、ソ連での自己保身と延命の道を選んだ。すでに多くのフィンランド共産党の「同志」を切捨て、コミンテルン東洋部のサファロフ、マジャールの他、日本人を含む多くのコミンテルン活動家を、ソ連の秘密警察に売り渡していた。だから、1964年に死んだ時には、ソ連共産党中央委員会政治局員まで、出世していた。

 妻アイノは、15年のラーゲリ(強制収容所)暮しを強いられた。そのことで、二人の間には、いかんともしがたい亀裂が生じた。1935年に最後に話し合って以降30年近く、二人は離婚はしなかったが、二度と会うこともなかった。

 夫オットーは、1964年に没し、ソ連の国葬に付された。妻アイノは、葬儀の時だけ、夫を失った喪主の役を演じてみせた。そのまま生まれ故郷のフィンランドに戻り、1970年に没した。日本では年齢を偽っていたが、1886年生まれだったから、天寿といっていいだろう。

 ただし、アイノ・クーシネンは、「イングリッド=エリザベート・ハンソン女史」としての滞日時代の回想を含む、一冊の遺稿を残した。1972年にドイツ語で出たその遺稿の表題を直訳すると、「神は己の天使を滅ぼしたもうた(Der Gott sturzt seine Engel)」。その邦訳は、ソ連の解体後、ようやく1992年に、『革命の堕天使たち――回想のスターリン時代』と題して出版された(平凡社)。

<異文2 国境を越える夢と逆夢(インタビュー、1994)>

――平凡社の「これからの世界史」シリーズで今度出された『国民国家のエルゴロジー』は、1938年正月の女優岡田嘉子・演出家杉本良吉の「恋の樺太越境」の謎解きからはじまっていますが、その後、さらにこの問題の資料が出てきているそうですね?

 ええ。岡田嘉子と一緒に越境して捕まった杉本良吉の供述書が、メイエルホリドの粛清ファイルから出てきたんです。当時のソ連で傑出した演出家であったメイエルホリドの逮捕のきっかけになったのが岡田・杉本の越境でした。スターリン粛清の最盛期に日本からソ連にとびこんだ岡田と杉本は、拷問により「日本のスパイだ」と自白させられました。その強制された自白供述のなかで、2人がメイエルホリドに師事していた日本人演出家佐野碩をもスパイであると認めたことが、メイエルホリドの粛清につながったんです。

――杉本良吉の供述のなかに出てくるんですか?

 そうです。テレビマンユニオンの今野勉ディレクターが「岡田嘉子の失われた10年」という1994年夏のNHK衛星放送の番組と同題の論文を『中央公論』94年12月号に書いて、杉本の38年10月の供述調書を紹介しています。そのなかに杉本が日本にいた時に「スエヒロ」と「クロキ」という人物から「メイエルホリドはトロツキズムの傾向があり日本人に優しい。佐野碩はメイエルホリドの家にいると自分の家にいるようだと言っていた」と教えられた、という話が出てきます。

 この供述のことを、今野さんに聞いて、私は「スエヒロ」と「クロキ」について調べてきました。当時の杉本と親しい日本共産党員か杉本の所属した新協劇団の関係者ではないかとあたりをつけ、日本側の記録をかたっぱしから読んでいたんです。1930年代初頭の共産党に黒木重徳という活動家がいますが京都で活動していて杉本との接点はありません。新劇関係かと思ってプロレタリア演劇史の資料にあたり、俳優松本克平さんの回想録『八月に乾杯』(弘隆社)のなかに末広美子という新協劇団の女優の名前をみつけ、経歴を調べて俳優座の千田是也さんに照会したところで、全然見当ちがいだったことがわかりました。もっと詳しい秘密資料がでてきたんです。

――どんな資料ですか?

 時事通信のモスクワ特派員だった名越健郎さんが、『クレムリン秘密文書は語る』という中公新書を1994年10月末に刊行されました。そのなかで、ロシアの軍検察局から入手した岡田嘉子と杉本良吉の調書を使っています。こちらで紹介された資料にも「スエヒロ」や「クロキ」が出てきて、そこでは「スエヒロ」は「日本情報機関の所属」「参謀本部第2部のスエヒロ」と書かれている。

 杉本良吉は「1931年以降日本警察の工作員として活動した」という罪状で銃殺されるのですが、そのスパイ活動を杉本に指示した日本警察側の人物として「オオバ、クロキ、スエヒロ」の名前が出てくるのです。しかも、名越さんの発掘した1939年9月のソ連最高裁軍事法廷の裁判記録では、最終局面で杉本は拷問により強制された自白供述をくつがえし、「オオバ、クロキ、スエヒロについては自分が勝手にねつ造したものだ」「佐野碩はスパイでない」とはっきり述べ、「そのような嘘をついたことを恥ずかしく思う」とスパイ目的での越境を否定します。

 この名越さんと今野さんの発掘した新資料で、岡田嘉子と杉本良吉の越境の謎はほぼ解けました。つまり、私が前著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)のなかで疑問を呈し、今度の『国民国家のエルゴロジー』〔平凡社)で推論したように、日本共産党員杉本が当時の国際共産党=コミンテルンへの連絡のため人気女優岡田をカモフラージュにして日本を脱出したという政治的越境ではなく、軍国主義日本での演劇活動に絶望した夫と子供をもつ岡田が、妻のある杉本をひっぱってソ連に新天地を求めた文字どおりの「恋の逃避行」だったわけです。ちょうど南京大虐殺の頃です。

 しかし、当時のソ連はスターリン粛清の最盛期で、日本人であれば誰でも「偽装スパイ」と疑われる。二人はすぐに離ればなれにされ、秘密警察の拷問でスパイであることを認めました。そればかりか佐野碩やメイエルホリドもグループの一員とされて、杉本は銃殺刑、岡田は10年の強制収容所生活を強いられます。

 私の調べていた「スエヒロ」「クロキ」は、ソ連秘密警察がデッチあげた名前で、日本共産党や新劇関係での追跡は徒労に終わりました。『モスクワで粛清された日本人』で主として扱った元東京大学医学部助教授国崎定洞の粛清ファイルの調査でも「日本軍参謀本部諜報部のタケダ」という名前が出てきて一応調べましたが、デッチあげだとわかりました。このようなまわり道は、旧ソ連公文書館秘密文書の解読ではさけられません。

演出家の杉本良吉は、日本共産党の革命家です。国家による弾圧と赤紙を恐れていた杉本に、岡田嘉子はソ連への亡命を提案します。演劇大国・ソ連は、自由で平等な理想国家だと信じていたのです。雪深い樺太の地をひた走り、2人は北緯50度線の国境を越えました。岡田嘉子が35歳のときでした。

しかし、実際のソ連はスターリンの粛清時代。越境後すぐに拘束され、2人は引き離されます。厳しい取り調べに疲弊した岡田嘉子は、スパイであるという虚偽の自白をし、禁固10年の刑に。杉本は銃殺されてしまいます。

2年間の獄中生活を経て釈放された岡田嘉子は、モスクワ放送局でアナウンサーとなり、同業の滝口新太郎と結婚。50歳でソ連最大の演劇大学に入学します。後年は日本とロシアを往来しながら舞台演出、テレビや映画への出演、手記の執筆などを行い、モスクワで89年の生涯を閉じました。

<異文3 日本語版ウィキペディアの岡田嘉子・ソビエト逃避行>

1937年(昭和12年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意した。当時の共産党員や支援者にとって、共産主義の本拠「コミンテルン」のあるソビエト・モスクワは“理想の地”であり、スタニスラフスキーの弟子・メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は左翼演劇人の憧れだった。

 新築地劇団のメンバーは先にソ連に亡命していた土方与志佐野碩スターリニズムの余波を受け、国外追放になったのを9月ごろ知っていたが、杉本はそれを知らずに「ソ連に行けば土方・佐野と会える。メイエルホリドのもとで学べるだろう」と信じていたといわれ、亡命は嘉子から誘ったといわれる。

1937年(昭和12年)暮れの12月27日、二人は上野駅を出発[1]北海道を経て樺太へ向かう。樺太は実父が事業に関係していた土地であり僅かながら土地勘があった。12月31日、敷香町の旅館に投宿。翌日から観光を行い、1938年(昭和13年)1月3日樺太鉄道終着駅敷香駅北の半田沢村国境警官隊詰所・半田警部補派出所を慰問する名目で国境線に向かい、厳冬の地吹雪の中、スキーで同行した二人の警官を振り切り、樺太国境を超えてソ連に越境する。駆け落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。

 亡命ということを想像しにくい日本人に対して、場合によっては国を捨てることも出来るということを知らせた衝撃は大きなものだった。岡田は表面の柔和さに似ず、激しい気性の情熱的な人だった。

1月10日、ソビエト連邦当局は、亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)の日本総領事に対して両名を大陸に護送した旨を通告。総領事は両名の釈放を求めたが回答は無かった。さらに1月13日、亜港の外交関係者は総領事に対して「岡田、杉本の取り調べを行っている」「両名は入露を希望していた」ことを通告している。

この事件を機に日本では1939年(昭和14年)に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU(後の KGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。拷問と脅迫で1月10日には、岡田はスパイ目的で越境したと自白した。このため、杉本への尋問は過酷を極め、杉本も自らや佐野碩土方与志メイエルホリドをスパイと自白した。

1939年(昭和14年)9月27日、二人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認し無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下され、10月20日に処刑された。12月26日、岡田はモスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察NKVDのビャトカ第一収容所に送られた。岡田はこの収容所で自己を取り戻し、ソ連当局に再審を要求する嘆願書を書き続けたが、無視された。このラーゲリに約3年間収容された後、1943年1月7日からモスクワにあるNKVDの内務監獄に収容され、獄中で日本語教育など対日工作の一端を担い、約5年後の1947年12月4日に釈放された。ソ連当局は釈放前にこの5年間の虚構の経歴を作り上げた。モスクワのNKVD監獄での彼女の活動、任務は明らかではないが、極秘の任務に属したとみられている。この間のことについては生涯口外せず、出版した三種の自伝でも真実を語らなかった。なお、ソ連軍は1939年8月にノモンハン事件の戦場で包囲した日本の砲兵団に対して日本語で投降を勧める宣伝を行ったが、岡田の声らしいという証言がある。

杉本の銃殺は嘉子の晩年になってようやく明らかになり、それまではずっと「獄中で病死」とされていた。また、彼らの亡命は世界的演出家メイエルホリド粛清の口実の1つにされた。嘉子はソ連入国後の初期(戦後あたりまで)の事を後年語っているが、実際は話とは違い、いくつかの刑務所に計10年近くも幽閉されていた事や、話していた事は(嘉子の意思に関係なく)釈放の時に幽閉の隠蔽として指示された作り話だったことが、嘉子の死去後の1994年12月4日にNHK-BS2で放映された『世界・わが心の旅 ソビエト収容所大陸』(レポーター・岸恵子)の現地取材により明らかになっている。この番組のディレクターである今野勉は、この内容を『中央公論』1994年12月号に「岡田嘉子の失われた十年」として発表した。釈放後も日本へはあえて帰国をしなかった。

戦後、モスクワ放送局(後のロシアの声)に入局。日本語放送アナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚で、戦前日活の人気俳優だった滝口新太郎と結婚、穏やかに暮らす。一方、日本は嘉子の亡命後、第二次世界大戦が始まり、彼女は忘れられた存在だったが、戦後1952年(昭和27年)、訪ソした参議院議員高良とみが嘉子の生存を確認。にわかに日本で関心が高まる。1954年(昭和29年)、訪ソした政治家大山郁夫の尽力により、ルナチャルスキー記念ソビエト連邦国立演劇芸術大学演出科に無試験で入学を許可され、同年9月入学。演劇者として舞台に再び立つ。1959年(昭和34年)6月の卒業公演は文学座を中心とする旧知の新劇人から送られた舞台図面、衣装、小道具などを使い、森本薫作・杉村春子の当たり役で知られる『女の一生』を『奪われた一女』と改題し、マヤコフスキー劇場で演出した。1962年(昭和37年)3月、モスクワのゴーリキー児童青少年映画中央撮影所で日ソの少年を主人公にした『一万人の少年』をボリス・ブネーエフと共同監督、及び出演。ソ連でペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と1986年に日本の芸能界を再び引退しソ連へ戻る。以降、死去まで日本へは2度と帰国しなかったが、日本のテレビ番組の取材には応じ、モスクワのアパートの自宅内も公開していた。日本からの取材クルーが来るととても喜んでいたという。晩年は軽度の認知症など老衰症状が出ていたことから、モスクワ日本人会の人々がヘルパーとして常時入れ替わり立ち替わりで彼女の面倒をみていた。

1992年、モスクワの病院で死去。89歳没。

第四回 (『本の街』2026年2月号掲載)

宮本百合子の「こわれた鏡」に映った「日本のソルジェニツイン」勝野金政

● 私は『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)の終章で、1937年冬の杉本良吉岡田嘉子のソ連への越境が、宮本顕治の「指令」に導かれた「こわれた鏡の偏向」であった、とまとめた。刑法犯で「獄中12年」の共産党指導者宮本顕治も、その妻の作家宮本百合子も、スターリン粛清最盛期のソ連について、「こわれた鏡」による歪んだ認識しかできず、信仰告白するしかなかった。 

●  作家宮本百合子が、獄中の夫・宮本顕治の求めに応じて「中条百合子」の筆名から戸籍と同じ作家名に変えたのは、生成AIによると、1937年10月のことだった。

 純文学からプロレタリア文学への転換の決意表明といわれ、その最初の評論が「こわれた鏡」であった。『帝国大学新聞』37年10月11日号のアンドレ・ジイド『ソヴエト旅行記』、『ソヴエト紀行修正』への批評である。『宮本百合子全集』第11巻所収だが、ウェブ上の「青空文庫」で簡単に読める。

ジイド『ソヴェト旅行記』への百合子の反発

●  「青空文庫」は、著作権が消滅した作品を無料で提供している。百合子の「こわれた鏡」は「ジイド知性の喜劇」と副題され、ジイドの『ソヴェト旅行記』『紀行修正』は、「悪意を底にひそめた感情の鋭さや、その感情を彼によって使い古されている切札である知力や統計の力やによって強固にしようと努力している姿において彼のこれまで書いたどの文章よりも悲惨である」「かつて或る才能を証明し得た作家が、歴史の本質を把握し得ないために、どんなに猛烈な自己分解を行うものであるかという、深刻な典型」で、ジイド(ジッド)の体験的ソ連批判を「幻滅した主観の上」にたつ「歴史の本質を把握しえない」「素朴なデマゴギー」とする。

 ジイドの旅行記を「芸術家の死命を制する人間的叡智の根源において、歴史の相貌の質的相異の知覚を失っているばかりか、それを自ら恐怖しもしないというのは、何という憤ろしい一つの喜劇であるだろう」と、「悲劇」でなく「喜劇」とするのも、かつて湯浅芳子と一緒にブルジョア令嬢として1927−30年のソ連を体験した百合子の、37年段階での知性の劣化である。

 ジイド自身は、ソ連の「画一主義」を批判し、「私は党よりも真実の方を好む」と明言していた。

●  同じ青空文庫で、この批評のもとになった『文藝春秋』37年2月(中条百合子名で書かれた)「ジイドとそのソヴェト旅行記」も読める。百合子は、もともとジイドがソ連を支持しソ連に招待されて旅行したのに、批判的な旅行記を書いた「転向」「変節」を批判した。

● 同時期の『文芸首都』37年12月「明日の言葉」には、「ジイドの『ソヴェト旅行記』は、この作家が彼の主観の角度にしたがってソヴェトから何をどう見て来たかというそのこと自体を、現代文化の崩壊的な一つの現実の姿として眺めるために役立ちはするが、ソヴェト生活のルポルタージュであると云えない」という。

● 日中戦争期の日本で、ちょうど南京事件の頃である。百合子は日本共産党員の大量「転向」やソ連の粛清裁判報道を知りながら、スターリンのソ連への忠誠と、刑法犯でありながら獄中「非転向」を貫く夫・宮本顕治を擁護し、信頼し続けた。職業的夫婦別姓を捨ててまで「こわれた鏡」にしがみついたのは、ジイドではなく百合子であった。ソ連の崩壊した今日から見れば、ソ連の現実から目をそらした信仰告白・盲信であり、ロマン・ロランには共感し、日中文学交流に取り組むなど、善意で生真面目なだけに、無残な言説として公衆の面前に残された。

「日本のソルジェニツィン」勝野金政のラーゲリ文学

● 宮本百合子が、同時期に同じ論理で批判した、日本人の作家がいた。ジイドと同様に、当時のソ連の真実を曝いた元片山潜私設秘書・勝野金政である。

● パリ大学留学中に、日本共産党ではなくフランス共産党に入り、国外追放でモスクワに入った。片山潜の晩年にソ連で「スパイ」と疑われ、ラーゲリ生活を体験した、スターリン体制告発の先駆者であった。1934年に日本大使館の助けで奇跡的に帰国し、34年『故片山潜秘書勝野金政手記』(日露通信社出版部)、『赤露脱出記』(日本評論社)、35年『ソヴェト・ロシヤ今日の生活』(千倉書房)、36年『二十世紀の黎明』(第一書房)に続いて、250枚の小説『モスクワ』を『文藝』37年8月に発表した。

● 当時の日本評論社の担当編集者は石堂清倫、改造社『文藝』の編集主任は、後にシベリア抑留を体験し宮本家の親族になる高杉一郎だった。戦後は故郷の南木曾に戻り製材業、『凍土地帯』(吾妻書房、1977年)が勝野金政の自伝風集大成である。未公刊の長編遺稿「白海は怒号する」も遺されている。

● 勝野金政数奇な生涯を、私は『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)で発掘した。宮本顕治の「こわれた鏡」について、杉本良吉にソ連への越境を指示し、岡田嘉子を伴った「愛の逃避行」による樺太越境直後にNKVDによる検挙され、二人は別々にされて杉本の死刑、岡田の10年の投獄・収容所生活を招いた政治責任を問うた。

●  石堂清倫は、勝野を「日本のロイ・メドベージェフ」と高く評価し、山口昌男は「日本のソルジェニツィン」と呼んで、ノーベル賞作家の『収容所群島』より三〇年以上早く書かれた傑作と激賞した。

● 勝野は、4年間のラーゲリ体験後、1934年に奇跡的に帰国し、多くのドキュメンタリーと小説を残す。山口昌男によれば、芥川賞候補にもなったということで、「この時受賞していれば『赤露脱出記』もソルジェニツィンの『収容所群島』の先駆的作品として或いは記憶にとどめられたかも知れない」「スターリン主義を含むボルシェヴィズムの劣性を勝野のごとく冷静に描き得た人物は当時他にいただろうか」とまで評する。

● 山口昌男は言う。「勝野がこのような文章を書けただけで、帰国後、東京外語大学のロシア語、或いは大阪のそれの教授職に任じられる力の持主であったことを示している。当時の日本は、このように有為な人物を適当な位置につけて生かすというシステムをもっていなかった」(『新潮』2001年10月・12月)。

百合子の「こわれた鏡」による勝野金政・佐藤春夫批判

●  勝野金政を評価できなかったのは、アカデミズムだけではなかった。宮本百合子は、ジイドの「こわれた鏡」と同じ頃に、勝野の小説を「小説以前」と酷評した。勝野を推薦した佐藤春夫の「作家」としての資質をも疑った。

●  百合子は、『東京日日新聞』37年7月「近頃の話題」で、「勝野金政という人物の『モスクワ』という作品は芸術品として見た場合、芸術以前のもの」と、勝野がラーゲリで体験した現実そのものを虚構とした。

● 「『作家』という名詞の内容」と題して曰く、「やはり『文藝』の8月号を見ていて感ずることであるが、雑誌の編輯というものも、面白いような妙なようなものである。……、創作の頭には勝野金政という人物の『モスクワ』という二百五十枚の小説がのっている。」「『モスクワ』という作品は芸術品として見た場合、芸術以前のものであり、読者の大部分に直ぐ誰とうなずけるような歴史的な人物などを配置して、しかもそれが、では、どこまで報告的確実さがあるかというと、その点では小説の方へずり込んでぼやけるような安心を与えない効果をもっている。『作家クラブ』『清党される日』『病室の独裁者』とかいう小題が付せられている章も、ゲ・ペ・ウに呼びつけられた時の描写や何かと混っているのである。

 編輯後記には、ソ連に数年滞在した若き作家と紹介されている。筆の立つ人であるらしく、数年前或る役所からこの人の名で独特なパンフレットが出ていたような覚えがある。いろいろを考えると、『作家』という名詞の包括力の大さに、慨歎せざるを得ないわけである。」

● ここにでてくる『文藝』8月号「編集後記」の現物が、信州南木曾の勝野家に残されていた。小川五郎=後の高杉一郎の筆になるかは確定できないが、文壇の「新しい風」として、「勝野氏はソ連に数年滞在の後帰れる若き作家、そのみずみずしい筆力は、希に見る清新な描写力と溌剌とした構成力示している」と作家としての力量を一緒にデビューした伊藤整と共に認め、その素材であるソ連の現実についても「ソ連の嵐は世界を戦慄させた」と評していた。日中戦争期でも、文学者・編集者の壊れていない鏡には、ジイドや勝野の表現がリアルに見えていた。見えないのは、百合子の「党派性」の眼鏡によるものだった。

● 直後の『中外商業新報』「文芸時評」には、「春夫の苦肉」と題して、「昨今、ジャーナリズムに反映している面だけを見てもソヴェト同盟に関する興味というものは実に異常なたかまりを見せている。……ジャーナリズムのこの流行の潮にのって『文藝』八月号に勝野金政なる人物の『モスクワ』という一文がのっている。勝野金政という署名で嘗て妙なパンフレットが書かれた事実は世間周知である。『モスクワ』は小説として発表されており『文藝』の編輯者はモスクワかえりの『作家』として紹介しているのであるが、作家というのは何でも彼でも文字を書くものを総てひっくるめて呼ぶ名ではないのである。佐藤春夫氏は……ジャーナリズムが社会的効果に対して無責任であることを指摘しているが、もし現在のジャーナリズムにそのような弱いところがなかったならば同氏によって『文藝』に推薦されたと仄聞そくぶんする勝野金政の小説などは、烏滸おこがましくも小説として世間に面をさらす機会はなかったのである。」
「或る作家が未熟で、下手で書きそこなった小説というのとは別の、本来作家でない他の何ものかであるものの書きものを、小説として買い、それをジャーナリズムに押しつける佐藤氏の人間的態度は腑に落ち難い」と佐藤春夫の「作家」としての資質まで「羊頭狗肉」として問題にする。

● 21世紀の今日から見れば、ソ連崇拝とスターリン主義に毒された宮本顕治・百合子夫妻の手鏡こそ、こわれて曇り、歪んでいだ。かつて「多喜二・百合子賞」というプロレタリア文学の文学賞があった。それはソ連崩壊後の2005年で廃止されたが、それを「歴史の後知恵」というだけでいいのだろうか。

 インターネット時代の「青空文庫」や生成AIは、共産党の「鉄の規律」や「文学の党派性」を、あっさりと打ち砕いてしまった。

(参考)

第三回(『新・本の街』2026年1月号掲載)

ゾルゲと福本和夫の

ドイツでの一期一会

● 写真は、歴史の一瞬を切り取り保存する。複写すれば、世界に広がる。フランクフルト学派ヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』(1936年)で、古典芸術の唯一性「アウラ」の喪失、礼拝的価値から展示的価値へのシフトを説いた。

●  この洞察を、フランクフルト学派自身の歴史に適用して、その創設神話を修正した、二枚の写真がある。そこには、関東大震災後の日本で一世を風靡した「福本イズム」の福本和夫と、太平洋戦争開始前夜に日本で捕まり死刑に処された、ソ連スパイのドイツ人リヒアルト・ゾルゲが関わっていた。

フランクフルト学派を産んだ研究集会とは?

●  マックス・ホルクハイマーテオドール・アドルノからユルゲン・ハーバーマスクラウス・オッフェにいたるフランクフルト学派批判理論の起源は、学生ならすぐに参照するウェブ上の百科事典、日本語版ウィキペディアには(2025年10月現在)、「1922夏、ドイツテューリンゲン州イルメナウで第1回マルクス主義研究集会が開催された。主催者はフランクフルト大学フェリクス・ヴァイルで、この会議の主なる目的はマルクス主義の新潮流を模索することであり、一週間に渡る会議においてはマルクス主義に関する話題が議論された」とある。

●  英語版Wikipediaにも同様の記述があり、主たる参加者はゲオルグ・ルカーチカール・コルシュカール・ヴィットフォーゲル、フリードリヒ・ポラクとされている。日本語版に出てくる福本和夫とゾルゲの名はない。

●  ドイツ語版には、研究集会の記述がなく、ヴァイルによる1924年フランクフルト社会研究所設立から、エーリヒ・フロムヴァルター・ベンヤミンフランツ・ノイマンヘルベルト・マルクーゼらの流れが語られる(ただし、ドイツ語版ウィキペディアには、Marxistische Arbeitswoche が別項目で出てくる)。

ウィキペディア日英版の開催年・場所は誤り

●  このウィキペディア日本語版・英語版の創設時の記述には、誤りがある。「1922年夏イルメナウ」というマルクス主義研究集会(研究週間労働週間ともいう)は、実は「1923年5月ゲラ(ゲラベルグ、ゲーラ)」であった。

 どちらも、戦後にアメリカで書かれたフランクフルト学派研究の定番、マーティン・ジェイ弁証法的想像力』1973年英語初版本邦訳1975年、みすず書房)に依ったためである。それは、ジェイ自身が、同書の第二版(1996年)で訂正している。だが、日英ウィキペディアでは、初版の誤りが踏襲されたままである。

●  この一回限りの研究集会の決定的証拠が、二枚の集合写真である。後のフランクフルト学派には直接関わらない二人の若者、ゾルゲと福本和夫の写影から、真実が見つかった。

 福本和夫が撮影した上の写真

● 上の写真は、ドイツで1980年代には流布していた研究集会の集合写真で、国際的によく知られたものである。

下の写真は、日本で福本和夫研究で知られるようになったものである。

 二枚の写真は、合宿に参加していたヘッダ・コルシュ夫人からドイツのコルシュ研究者ミヒャエル・ブクミラーが入手し、存命中だった福本和夫にも届けられた。

●  一見して同じ日の同じ場所で同時に撮られた写真で、上の写真は福本和夫が撮影し、下の写真は福本の位置にいたドイツ人の若者が代わってシャッターを押した。

●  福本がシャッターを押した上の写真は、長くフランクフルト大学のホームページに掲げられていた。国際的スタンダードである。

 上の写真に写っているのは、左からヘーデ・グンペルツ、フリートリヒ・ポラク(法学者)、エドアルト・ルートヴィヒ・アレクザンダー、コスタ・ツェトキン[クララ・ツェトキンの息子]、ゲオルグ・ルカーチ、ジュリアン・グンペルツ、リヒアルト・ゾルゲ、カール・アレクザンダー(息子)、フェリクス・ヴァイル、氏名不詳、と解読されている。

 前列で座っているのは、左から、カール・アウグスト・ヴィットフォーゲル(地政学者)、ローザ・ヴィットフォーゲル、氏名不詳(福本和夫の映った写真の撮影者)、クリスティアネ・ゾルゲ(ゾルゲ夫人)、カール・コルシュ、ヘッダ・コルシュ(二枚の写真の提供者)、ケーテ・ヴァイル、マルガレーテ・リッサウエル、ベラ・フォガラシ、ゲルトルート・アレクザンダー、という顔ぶれであった。

●  主だったマルクス主義者は夫婦で出席し、ローザ・ルクセンブルグ主義者でドイツ共産党員だったゾルゲは、最初に結婚した妻クリスティアネと、一緒に写っている。翌1924年6月、カール・グリュンベルグを所長に社会研究所が設立される母体になった。

 ゾルゲは、ポラクと共に所長助手となったが、翌1925年、コミンテルン指導部にスカウトされて、モスクワに移りソ連共産党に転籍、後に赤軍情報部(GRU)の諜報員となる。

● ただし、1930年代の日本では、治安維持法で獄中14年の日本共産党指導者福本和夫と、ドイツ共産党からソ連へと転籍して赤軍諜報員となり来日したゾルゲが、交わることはなかった。二人は思想的にはごく近くにいたのだが、実際に交差したのは、1923年5月ドイツでの一期一会のみであった。

二枚の写真と八木紀一郎による歴史的集会の特定

●  福本和夫の入った下の写真は、『運動史研究』第13号の福本和夫特集(1984年)以降、日本ではルカーチ、コルシュと福本、ゾルゲが一堂に会した歴史的写真として知られるようになった。

●  「1922年夏イルメナウ」というマーティン・ジェイがヴァイルから得た当初の日付と場所は、その時期ゾルゲは党活動中でテューリンゲンにおらず、福本和夫もイギリス旅行中だったと証言して否定された。

 旧東独から、党活動と学者への狭間で揺れていたゾルゲが事務局として出した、1923年5月付招待状が見つかり、ゲラの合宿ホテルも特定された。アメリカのジェイもこれらを認め、1996年の原書第二版注で訂正したが、その邦訳はない。

● 今日のドイツ語版ウィキペディアでは、 Felix Weil の項目から入るとMarxistische Arbeitswocheの項とリンクされており、そこに福本和夫がシャッターを押した上の写真が掲載されて、「第1回マルクス主義労働週間は、1923年5月20日から聖霊降臨祭の8日間、テューリンゲン州アルンシュタット近郊のゲラベルクで開催された会議。会場は、共産主義者フリードリッヒ・ヘネが経営する駅ホテル。参加者には、著名なマルクス主義者や共産主義者が名を連ねた」と、最新の研究水準で綴られている。

● 上の福本がシャッターを押した国際的スタンダードの写真は、⽇本のゾルゲ事件研究を牽引してきた⽩井久也・渡部富哉らの⽇露歴史研究センターが、2003 年10 ⽉に機関誌『ゾルゲ事件関係外国語⽂献翻訳集』を創刊するにあたって、その創刊号の表紙に採用した。

●  こぶし書房は、『福本和夫著作集』全10巻を公刊する際、福本とゾルゲの入った1923年5月「マルクス主義研究週間」(於ドイツ・ゲラベルク)参加者の写真を、ホームページに発表した。

 2011年5月の『福本和夫著作集完結記念の集い』で、八木紀一郎は、参列者への「お土産」として、2枚の写真を一緒に披露し、私も寄稿した『報告集』に収録された(2011年10 月発行、こぶし書房)。

● これら全体の謎を、最終的に明らかにしたのは、福本和夫の存命中に写真を入手し、『運動史研究』に発表した八木紀一郎である。

 八木は、社会研究所創立百年を前に、『20世紀知的急進主義の軌跡――初期フランクフルト学派の社会科学者たち』(みすず書房、2021年)を著し、第9回経済学史学会賞(2025年)を受賞した。

● そこでは、ゾルゲはスパイとしてではなく、ドイツ共産党の実践活動に加わりつつも社会研究所所長助手に抜擢された、すぐれた経済学研究者として、福本和夫も、留学中にドイツ語教師コルシュに誘われ参加した「一人の日本人」として、詳しく扱われている。

● 『マルクス主義と哲学』『カール・マルクス』で知られる非ロシア的主体性哲学者コルシュは、福本ばかりでなく、日本人に個人教師としてドイツ語を教える、名家庭教師であった。コルシュを通じて福本は、当時の最新のマルクス主義理論を学び日本に紹介したが、福本以降も、新明正道、杉本栄⼀、⼤熊信⾏、服部英太郎ら⽇本のマルクス主義の基礎を築いた⼈びとが、ドイツ留学中にコルシュのもとで学んでいる

●  ウィキペディア日英版の誤った記述は、訂正されなければならない。

(参考)「福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)

『新・本の街』2026年1月号掲載

第二回(『新・本の街』12月号掲載、完全版) 

松本清張『球形の荒野』のモデルは「亡命者」崎村茂樹か

● 松本清張『球形の荒野』は、数ある清張の推理小説の中でもポピュラーな作品だ。国会が安保闘争で揺れた1960-61年『オール讀物』連載、62年単行本刊行直後にテレビドラマになり、以後も2014年まで8回もテレビに、75年には松竹で映画にもなった。

 

中国語訳は「日本を裏切った日本人」

● 中国語に訳されて、中国でもベストセラーになった。ただしそれは、2012年以降のことで、当初の題名直訳の中国語版は売れなかった。タイトルを『日本を裏切った日本人』と変えたことで、急速に広まった(加藤「国際情報戦としてのゾルゲ事件」、蘇智良編『左尓格在中国的秘密使命』上海社会科学院出版社、2014年、「ゾルゲ事件」上海国際会議報告)。

● あらすじは、この中国語版タイトルが明解に示している。ただし、ゾルゲ事件の尾﨑秀実と同様に、軍国日本への裏切りは売国か愛国かで、評価は分かれる。

「歴史探偵」のご本家・半藤一利は、文春文庫版で「芦村節子は旅で訪れた奈良・唐招提寺の芳名帳に、外交官だった叔父・野上顕一郎の筆跡を見た。大戦末期に某中立国で亡くなった野上は独特な筆跡の持ち主で、記された名前こそ違うものの、よもや? という思いが節子の胸をよぎる。節子の身内は誰も取り合わないが、野上の娘の恋人・添田彰一は、ある疑念をいだく‥‥停戦工作の裏事情と一外交官の肉親への絶ちがたい情愛が交錯する国際謀略ミステリーの傑作」と激賞する。

 どうやら松本清張は、戦争中に敵国と秘かに通じた野上を、「愛国者」と考えたようだ。

● ただし、清張も故半藤一利も、野上のモデルを特定していない。確かに戦時中に国外で秘かに和平工作を試みた日本人は、スウェーデンの岡本季正・小野田信・伊奈一、ドイツの崎村茂樹・酒井直衛・近衛秀麿、スイスの藤村義一・笠信太郎・笹本駿一・加瀬俊一・岡本清福・北村孝二郎・吉村侃、バチカンの富沢孝彦・原田健、ポルトガルの井上益太郎、中国の田村真作など、濃淡は異なるが、名を挙げることができる。中には敗戦後日本に帰国しなかったものもいる。

清張は「亡命者」崎村茂樹を知らなかった

● この謎について、崎村茂樹を研究する私は、インタビューを受けた。北九州松本清張記念館『松本清張研究』第13号(2012年)に、こうある。

 「野上顕一郎のモデルは誰か? ダレス工作に関わった『加瀬俊一と岡本清福と北村孝次郎を足して3で割った人物』というのが妥当な線であろう。ところが最近、新たなモデル候補が浮上してきた。名前を崎村茂樹という。

 崎村茂樹の情報に詳しい一橋大学の加藤哲郎教授によると、崎村は1909年生まれ、気鋭の農業経済学者[東大講師]だった。戦時中は、ドイツ[の日本]大使館嘱託、[鉄鋼統制会調査員]として、鉄鋼事情の調査分析を担当していた。

その彼が『1943年暮れに、日本の右翼黒龍会とドイツのゲシュタポの弾圧を恐れてスウェーデンに亡命』したことが、連合国側の新聞やラジオで報道された。

その後44年5月にドイツに連れ戻されるが、ドイツ敗戦後はシベリア経由で満州に移り、中国に10年滞在、帰国したのは、日本を出てから15年後の1955年のことだった。留守家族にとっても、文字通り『帰ってきた亡霊』であった。

崎村については、これまで国内で全く知られておらず、「『球形の荒野』執筆当時、清張が彼のことを知っていた可能性はきわめて低い」と加藤教授は言う。しかし、海外帰国者から彼の情報を小耳にはさんだ可能性も全くゼロとは言えない。真相は謎に包まれたままである。」

 1944年5月の『ニューヨーク・タイムズ』に「初めて連合国に加わろうとした日本人」と大きく報じられた崎村茂樹の「亡命」は、謎が多い。米国CIAの前身OSS(戦時情報局)在欧日本人監視資料、ドイツの『ゲッペルス日記』にも出てくる。

 私は「情報戦のなかの『亡命』知識人ーー国崎定洞から崎村茂樹まで」インテリジェンス 』誌9号、2007年)のなかで、「若き崎村茂樹は、リベラル左派か、親ナチ右派だったのか?」「崎村茂樹は、なぜスウェーデンに『亡命』したのか?」「崎村茂樹『亡命』は、連合軍との『和平工作』を意味するか?」「いったん『亡命』した崎村茂樹は、なぜベルリンに戻り、ドイツ敗戦をいかに迎えたか」「1945年5月ドイツ敗戦で、崎村茂樹はなぜ日本に戻らず、中国に向かったのか?」「1945年9月以降、崎村茂樹はなぜ中国に入り、何をしていたのか?」を「六つの謎」として挙げ、問題提起した。

● その後、国会図書館憲政資料室で公開された連合軍接収在独日本大使館資料中に「崎村茂樹ファイル」が見つかり、スウェーデン国立公文書館などで新たな資料を探索し、2本目の論文を書いた。「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」と題した雑誌『未来』への寄稿で、彼のスウェーデン亡命中の接触相手が、戦後ノーベル賞受賞者ミュルダール夫妻や亡命中の戦後西独首相ブラントらの社会民主主義「小インターナショナル」と関係したことまでを書いた(田中浩編『リベラル・デモクラシーとソーシャル・デモクラシー』未来社、2013年)。

● ただし、ドイツ敗戦時のシベリア鉄道経由旧満洲国入国とその後の新中国での10年間がよくわからないため、単行本にはしていない。日本で一時報じられた1950年毛沢東暗殺未遂事件への関与は誤報であった。

● 21世紀に発覚した崎村茂樹「亡命」問題について、松本清張が関心をもった形跡がないので、『松本清張研究』第13号のインタビューでは、『球形の荒野』執筆時の清張は崎村を知らず、モデルではなかったろうと答えた。

 ただし、その後の研究で、もしかしたらという、一つの接点が見つかった。それは、荒木光子という、戦後占領期に活躍した三菱財閥令嬢への、早くからの松本清張の注目である。

未完の小説のヒロイン荒木光子が、崎村茂樹と松本清張を結ぶか?

● 荒木光子は、崎村茂樹を農学部講師に登用した東大教授荒木光太郎の夫人で、松本清張は『球形の荒野』と同じ頃の『婦人公論』1960年11月号に「占領『鹿鳴館』の女たち」を書いている。

戦後日本のGHQのパーティで、日本側は旧華族など「良家の子女」を動員して連合国軍幹部を「接待」した。民主化を進めるGSケーディス大佐と子爵夫人鳥尾鶴代の関係はよく知られているが、それを告発して「逆コース」を招いた反共G2ウィロビー少将の「東京妻」と噂されたのが、三菱財閥荘家の令嬢・荒木光子であった。彼女にも清張は注目した。しかし、ウィロビーや荒木光子の資料は、清張の生前にはほとんど入手できず、単行本には書けなかった。

● 戦前から在日各国大使館の舞踊会の華であった荒木光子には、経済学者である夫・荒木光太郎の助手であった「語学の天才」崎村茂樹が、通訳としてつきそっていた。戦後は、崎村が1955年に帰国するまで、荒木光子はウィロビーお気に入りのG2歴史課相談役として、戦犯告発・公職追放・再軍備や、G2の謀略にも辣腕をふるった。

● 崎村茂樹は55年に日本帰国後、拓殖大学教授から東京理科大学教授、八幡製鉄嘱託となり、荒木光子と共に欧州旅行にもでかけたが、松本清張は、それらを知らなかっただろう。

 ようやく21世紀になって、阿羅健一『秘録・日本国防軍クーデター報告』(講談社、2013年)、よリ学術的な美術史家・北原恵「松本清張、未完の仕事:荒木光子の戦中・戦後」(北九州市立松本清張記念館、2020年)が現れた。

 野上顕一郎のモデルは、相変わらず、謎のままである。

● 崎村茂樹については、本サイトの以下を参照。

第一回 (『新・本の街』11月号掲載、完全版) 

竹久夢二の描いた二枚の「ベルリンの公園」の入国経路の謎

(「新・本の街」11月号掲載文)

       加藤哲郎(一橋大学名誉教授・政治学)

● 自分で名乗ったわけではないが、「国際歴史探偵」と呼ばれて30年になる。そこで見つけた現代史の謎のいくつかを、本連載で書いていきたい。

● きっかけは、1989-91年、ソ連・東欧社会主義の崩壊だった。旧ソ連の秘密文書が公開されたので、モスクワに出かけた。もともと医師・川上武や俳優座の千田是也らと共に探求してきた、国崎定洞の記録を収集するためだった。元東大医学部助教授で、ドイツに留学中に共産主義運動に加わり、ナチスの政権掌握で日本に戻らずソ連に亡命した国崎の、38年客死の謎を追った。予想通り、当時猛威をふるったスターリン粛清の一環で、「日本のスパイ」という荒唐無稽な冤罪による銃殺刑だった。

● 予期できなかったのは、それが同じ日本からの亡命共産主義者・山本懸蔵による密告、戦後日本共産党議長の野坂参三の黙認によることだった。そのことを示す文書がみつかり、当時モスクワ・レニングラード等に散在した約100人の旧ソ連在住日本人が、仲間内の疑心暗鬼で軒並み粛清されたことを知った(加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、同『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年)。

● ソ連から国外追放になった演劇の佐野碩・土方与志らは幸運な方で、無傷で生き残ったのは野坂参三だけであった。国崎定洞が粛清された理由を探ると、ヒトラー政権掌握期のドイツで、国崎と千田が中心となったドイツ共産党日本人部、その指導下の革命的アジア人協会に行き着いた。当時の共産党は、コミンテルン=世界共産党の支部であり、国崎も千田も、日本では共産党員でなかった。ベルリンからモスクワに亡命した国崎が、日本共産党労働者代表山本懸蔵に「スパイ」と疑われたのは、東大卒のエリート「インテリ」医師で、日本での党歴・活動歴がなかったためであった(加藤『ワイマール期ベルリンの日本人』岩波書店、2008年)。

ベルリンに現れた画家・竹久夢二

● ナチスに抵抗した国崎・千田の周辺に、佐野碩・藤森成吉ら在独芸術家・作家たちもいた。そこに、画家で詩人の竹久夢二がアメリカからやってきた。夢二と言えば、大正ロマンの水彩美人画や「宵待草」で知られる。しかし彼の出発点は初期社会主義の『直言』『平民新聞』挿絵画家で、荒畑寒村と同居し、社会運動と接点をもっていた。関東大震災で美人画や絵葉書が売れなくなり、震災被害のリアルなペン画スケッチを残し、榛名湖畔に産業美術研究所創設を構想した。

● 夢二は1931年アメリカに旅立ち、32-33年はドイツに滞在した。カルフォルニアで油絵も再開し、ベルリンでは社会民主党系バウハウスのヨハネス・イッテンの画学校で東洋画を教えた。学生にはユダヤ人が多かった。ちょうど左右の対立の中からヒトラーのナチス政権が成立した時で、彼はその目撃者となり、ユダヤ人学生をひそかに助けていた(法政大学大原社会問題研究所所蔵「藤林伸治資料」)。

● 筑摩書房版『夢二日記』1933年3月21日に「ウクライナのボルシュ[ボルシチ]をのみにいったが2マルク80片とられる。猶太人の橄欖[オリーブ]の葉を入れたボルシュはもう食えない。ナッチに追はれて店をしめていつたのであろう。避雷針のついた鉄兜をきたヒットラアが何を仕出かすか。日本といひ、心がかりではある」(第2巻268頁)とある。「日本のハイネ」(米村正一「夢二とナチス」『本の手帖』1962年1月)とまで言えるかどうかは別として、夢二の反ナチは確認できる。

● 夢二は帰国後まもなく台湾旅行で肺結核が見つかり信州の療養所で没するため[『本の街』に印刷された「台湾で没する」は誤りで、お詫びし訂正します]、晩年の夢二の研究と評価、海外での作品発掘は遅れている。私はアメリカ史の袖井林二郎教授と共にドイツ時代の夢二を追い、チューリッヒでイッテン・シューレ時代の貴重なスケッチの所在を確認し、NHK「日曜美術館」に提供することができた。その過程で出てきたのが、共に「ベルリンの公園」と題する二枚の同じモデルと構図の絵が、日本に戻ってきた事情の謎である。現在は二枚とも岡山の夢二郷土美術館所蔵だが、最新の歴史家ひろた・まさきの遺作『異郷の夢二』(講談社、2023年)によっても、問題は解明されていない。

● 詳しくは、私の『ワイマール期ベルリンの日本人』のほか、ウェブ上の加藤HP「ネチズンカレッジ」(https://netizen.jp)に収録した、「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年)「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年)などで論じたが、右側の女の子が玩具を引く絵は、夢二郷土美術館では「小公園」としている。

● 当時ベルリン大学美学生で後に昭和天皇侍従長になった徳川義寛が、おそらく夢二の滞独生活援助のために買い持ち帰った。多くの画集に収録され郵便切手にもなった左の絵は、画商の手を経ている。同じくベルリン大学学生で国崎・千田らの革命的アジア人協会で反ナチ運動に加わった八木誠三(名古屋丸栄百貨店の御曹司)か井上角太郎(在独日本商務官事務所助手で、恋人はユダヤ人)から画商に渡った可能性がある。ひろた・袖井氏は、コロナ禍で亡くなった。若い歴史家・美術史家の再挑戦を期待する。

● こんな国際歴史探偵のこぼれ話を拾って、次回は松本清張『球形の荒野』の和平工作に関わった外交官のモデルの謎に挑戦する。

※ 掲載文のウェブ収録に当たっては、横書き用の洋数字や印刷文の訂正のほか、字数の関係で削った文の復元・補足があります。「新・本の街」読者の皆様には、ご容赦ください。

● 「ネチズンカレッジ」移転・改築に当たって、東京神田・神保町・御茶の水の地域交流タウン誌『新・本の街』 とタイアップして、「国際歴史探偵の書斎から」と銘打ち、この間の現代史・インテリジェンス研究の未解決の謎を連載することにしました。主に留学・出張・外遊・洋行・探検・亡命などで海外に出た日本人の、文化・芸術関係の歴史にまつわる問題を、エッセイ風に書き残します。

● 詳しくは、以下のいくつかのエッセイなどで論じてきましたが、最近出された歴史家ひろた・まさきさんの遺作『異郷の夢二』(講談社、2023年)によっても、問題は解決していません。

「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年8月)

「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年6月)

● 以下のサイトもご参照ください。

松岡正剛「袖井林二郎『夢二のアメリカ』書評」

日本近代美術史サイト 「夢二のベルリン」

法政大学大原社会問題研究所 「藤林伸治資料」

10月8日  『新・本の街』2025年11月号に掲載されました。

4 文化学研究科

Cultural Studies

(文化)

カルチャーとしての社会主義『20世紀を超えて』序論、花伝社、2001年)

ワイマール末期在ベルリンの日本人文化人・知識人」(Ogai-Vorlesung、ドイツ語レジメ・資料、1998) 

「幻の紀元2600年万国博覧会ーー東京オリンピック、国際ペン大会と共に消えた『東西文化の融合』」(加藤哲郎監修・解説『近代日本博覧会資料集成 紀元2600年記念日本万国博覧会』、国書刊行会、2016別冊)

「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)

(美術)

宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」(日露歴史研究センター編・第6回ゾルゲ事件国際シンポジウム報告集『ゾルゲ事件と 宮城與徳を巡る人々』2011年10月)(伊藤律の冤罪)

  (文学)

・「ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ」(平川祐弘・牧野陽子編『ハーンの人と周辺』新曜社、2009年8月)

「芹沢光治良と友人たち──親友菊池勇夫と『洋行』の周辺」(『国文学 解釈と鑑賞、特集 芹沢光治良』第68巻3号、2003年3月)

「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)

・『「飽食した悪魔」の戦後ーー731部隊・二木秀雄と「政界ジープ」』(花伝社、2017年5月

  (音楽)

大正生れの歌探索記(2018年版)

  (映画)

岸惠子主演『真珠湾前夜』が可能にした学術的ゾルゲ事件研究」(みすず書房HP「トピックス」2023年5月)

  (演劇)

国境を越える夢と逆夢(インタビュー、1994、岡田嘉子と杉本良吉の越境)

・「疑心暗鬼の国が生んだ人間のドラマ」(静岡県舞台芸術センター『劇場文化』9号 、2009年6月)

  

今後の予定(不定期、順不同)

●島崎藤村と岡本かの子

●松本清張と崎村茂樹

●勝本清一郎と島崎蓊助

●村山知義と千田是也

●坂倉準三と山口文像

●アグネス・スメドレーと石垣綾子

●岡田嘉子と杉本良吉

●宮本百合子と勝野金政

●佐野碩とフリーダ・カーロ

●宮城与徳と安田徳太郎

●木下順二と中野好夫

●石川啄木と宮澤賢治

●尾﨑秀実と太宰治

●リヒアルト・ゾルゲとアイノ・クーシネン、ほか