

第二回 松本清張『球形の荒野』のモデルは崎村茂樹か
● 第一回は、10月中に『新・本の街』11月号に掲載されますので、出てから完全原稿に修正します。第二回は12月号ですが、「清張『球形の荒野』のモデルは崎村茂樹か」と予告されています。
● イントロだけはできているのですが、
松本清張『球形の荒野』は、数ある清張の推理小説の中でもポピュラーな作品だ。国会が安保闘争で揺れた一九六〇―六一年『オール讀物』連載、六二年刊行直後にテレビドラマになり、以後も二〇一四年まで八回もテレビに、七五年には松竹で映画にもなった。
中国語に訳されて、中国でもベストセラーになった。ただしそれは二〇一二年以降のことで、題名直訳の中国語版は売れなかった。タイトルを『日本を裏切った日本人』と変えたことで、急に広まった(加藤「ゾルゲ事件上海国際会議報告:国際情報戦としてのゾルゲ事件」、蘇智良編『左尓格在中国的秘密使命』上海社会科学院出版社、二〇一四年)。



● あらすじは、この中国語版タイトルが明解に示している。ただしゾルゲ事件の尾﨑秀実と同様に、軍国日本への裏切りは売国か愛国かで評価は分かれうる。「歴史探偵」のご本家・半藤一利は、文春文庫版で「芦村節子は旅で訪れた奈良・唐招提寺の芳名帳に、外交官だった叔父・野上顕一郎の筆跡を見た。大戦末期に某中立国で亡くなった野上は独特な筆跡の持ち主で、記された名前こそ違うものの、よもや?という思いが節子の胸をよぎる。節子の身内は誰も取り合わないが、野上の娘の恋人・添田彰一は、ある疑念をいだく‥‥停戦工作の裏事情と一外交官の肉親への絶ちがたい情愛が交錯する国際謀略ミステリーの傑作!」と激賞する。清張は、戦争中に敵国と秘かに通じた野上を「愛国者」と考えたようだ。
● ただし清張も故半藤一利も、野上のモデルを特定していない。確かに戦時中に国外で秘かに和平工作を試みた日本人は、スウェーデンの岡本季正・小野田信・伊奈一、ドイツの崎村茂樹・酒井直衛・近衛秀麿、スイスの藤村義一・笠信太郎・笹本駿一・加瀬俊一・岡本清福・北村孝二郎・吉村侃、バチカンの富沢孝彦・原田健、ポルトガルの井上益太郎、中国の田村真作など、濃淡は異なるが挙げることができる。中には敗戦後日本に帰国しなかったものもいる。
● この謎について、崎村茂樹を研究する私は、インタビューを受けた。北九州松本清張記念館『松本清張研究』第13号(2012年3月)に、こうある。「野上顕一郎のモデルは誰か? ダレス工作に関わった『加瀬俊一と岡本清福と北村孝次郎を足して3で割った人物』というのが妥当な線であろう。ところが最近、新たなモデル候補が浮上してきた。名前を崎村茂樹という。崎村茂樹の情報に詳しい一橋大学の加藤哲郎教授によると、崎村は一九〇九年生まれ、気鋭の農業経済学者[東大講師]だった。戦時中は、ドイツ大使館嘱託として、鉄鋼事情の調査分析を担当していた。その彼が『一九四三年暮れに、日本の右翼黒龍会とドイツのゲシュタポの弾圧を恐れてスウェーデンに亡命』したことが、連合国側の新聞やラジオで報道された。その後ドイツに連れ戻されるが、ドイツ敗戦後はシベリア経由で満州に移り、中国に十年滞在。帰国したのは、日本を出てから一五年後の一九五五年のことだった。留守家族にとっても、文字通り『帰ってきた亡霊』であった。崎村についてはこれまで国内で全く知られておらず、「『球形の荒野』執筆当時、清張が彼のことを知っていた可能性はきわめて低い」と加藤教授は言う。しかし、海外帰国者から彼の情報を小耳にはさんだ可能性も全くゼロとは言えない。真相は謎に包まれたままである。」
● 二一世紀に発覚した崎村茂樹「亡命」問題について、松本清張が調べたり関心をもった形跡がないので、私は『球形の荒野』執筆時の清張は、崎村を知らずモデルではなかったろうと答えた。ただしその後の研究で、もしかしたらという一つの接点が見つかった。それは、崎村茂樹が親しかった、荒木光子という戦後占領期に活躍した三菱財閥令嬢への清張の注目である。‥‥ 以下は、掲載時のお楽しみである。崎村茂樹については、本サイトの以下を参照。
- 「情報戦のなかの『亡命』知識人ーー国崎定洞から崎村茂樹まで」(20 世紀メディア研究所『インテリジェンス 』誌第9号、2007年11月)
- 「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索」」
- 「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの 記録から」(田中浩編『リベラル・デモクラシーとソーシャル・デモクラシー』未来社、2013年1月、所収)

第一回
竹久夢二の二枚の「ベルリンの公園」



● 「ネチズンカレッジ」移転・改築に当たって、東京神田・神保町・御茶の水の地域交流タウン誌『新・本の街』 とタイアップして、「国際歴史探偵の書斎から」と銘打ち、この間の現代史・インテリジェンス研究の未解決の謎を連載することにしました。主に留学・出張・外遊・洋行・探検・亡命などで海外に出た日本人の、文化・芸術関係の歴史にまつわる問題を、エッセイ風に書き残します。
● 本サイトでは主題のみ予告し、エッセイ全体は『新・本の街』掲載後に本欄に収録していきます。初回は、晩年の竹久夢二が、ナチス政権成立時にベルリンでヒトラーを目撃しつつ描いた、構図もモデルも酷似した二枚の「ベルリンの公園」と題する水彩画(現在は共に岡山「夢二郷土美術館」所蔵)が、なぜ何のために書かれ、どのようにして日本に持ち込まれたかの謎解きです。
● 竹久夢二と言えば、大正ロマンの美人画や「宵待草」でしられています。しかし彼の絵画の出発点は初期社会主義の「直言」「平民新聞」の挿絵画家で、荒畑寒村と同居するなど社会運動との接点をもっていました。関東大震災で水彩の美人画や絵はがきが売れなくなったとき、震災被災地のリアルなスケッチを残し、榛名湖畔に産業美術研究所を企画した事も知られています。
● その彼が1931年アメリカに旅たち、32ー33年はドイツに滞在して本格的に美術を学ぼうとしました。アメリカでは油絵も再開し、ドイツでは社会民主党系バウハウスのヨハネス・イッテンの画学校で東洋画をユダヤ人美学生らに教えていました。ちょうど左右の対立の中からヒトラーのナチス政権が成立した時で、彼はその目撃者となるとともに、ユダヤ人学生をひそかに助けたとも言います。
● 日本帰国後まもなく台湾旅行後没するため、晩年の夢二の研究と評価、海外での作品の発掘は遅れていました。私はアメリカ史の袖井林二郎教授と共にドイツ時代の夢二を追い、イッテン・シューレ時代の貴重なスケッチ類なども見つけNHK「日曜美術館」に提供することができました。その中で出てきたのが、上の写真の右と左に掲げた、共に「ベルリンの公園」と題する2枚の夢二の水彩画の謎です。右の女の子が玩具を引いた絵は、岡山の夢二郷土美術館では「ベルリンの小公園」として、多くの画集に入った左側のよく知られた絵と差異化しています。これらがどのようにして日本に持ち込まれたが謎です。
● 詳しくは、以下のいくつかのエッセイなどで論じてきましたが、最近出された歴史家ひろた・まさきさんの遺作『異郷の夢二』(講談社、2023年)によっても、問題は解決していません。
● 長年占領史研究・原爆研究の片手間で一緒に夢二を追い、アメリカ時代の夢二の貴重な作品を発見してきた袖井林二郎さん(1933−2025)も、ひろた・まさきさん(1934−2020)に続いて亡くなりました。実は、ひろたさんとはボストンで、袖井さんとはワシントンDCやメキシコ・沖縄で、幾度か意見交換したことがありました。私のベルリン在住日本人の反ナチ運動に夢二も関わっていたという政治学的仮説は、ありうると激励されましたが、実証できないままになっています。若い歴史家・美術史家の再挑戦を期待します。
- 「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年8月)
- 「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年6月)



● 以下のサイトもご参照ください。
10月8日 『新・本の街』2025年11月号に掲載されました。



(「新・本の街」11月号掲載文)
竹久夢二の二枚の「ベルリンの公園」
加藤哲郎(一橋大学名誉教授・政治学)
自分で名乗ったわけではないが、「国際歴史探偵」と呼ばれて30年になる。そこで見つけた現代史の謎のいくつかを、本連載で書いていきたい。
旧ソ連・秘密文書公開が発端
きっかけは、1989-91年、ソ連・東欧社会主義の崩壊だった。旧ソ連の秘密文書が公開されたので、モスクワに出かけた。もともと医師・川上武や俳優座の千田是也らと共に探求してきた、国崎定洞の記録を収集するためだった。元東大医学部助教授で、ドイツに留学中に共産主義運動に加わり、ナチスの政権掌握で日本に戻らずソ連に亡命した国崎の、38年客死の謎を追った。予想通り、当時猛威をふるったスターリン粛清の一環で、「日本のスパイ」という荒唐無稽な冤罪による死刑だった。
予期できなかったのは、それが同じ日本からの亡命共産主義者、山本懸蔵による密告、戦後日本共産党議長の野坂参三の黙認によることだった。そのことを示す文書がみつかり、当時モスクワ・レニングラード等に散在した約100人の旧ソ連在住日本人が、仲間内の疑心暗鬼で軒並み粛清されたことを知った(加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、同『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年)。
ソ連から国外追放になった演劇の佐野碩・土方与志らは幸運な方で、無傷で生き残ったのは野坂参三だけであった。国崎定洞が粛清された理由を探ると、ヒトラー政権掌握期のドイツで、国崎と千田が中心となったドイツ共産党日本人部、その指導下の革命的アジア人協会に行き着いた。当時の共産党は、コミンテルン=世界共産党の支部であり、国崎も千田も日本では共産党員でなかった。ベルリンからモスクワに亡命した国崎が、日本共産党労働者代表山本懸蔵に「スパイ」と疑われたのは、東大卒のエリート「インテリ」医師で、日本での党歴・活動歴がなかったためであった(加藤『ワイマール期ベルリンの日本人』岩波書店、2008年)。
ベルリンに現れた画家・竹久夢二
ナチスに抵抗した国崎・千田の周辺に、佐野碩・藤森成吉ら在独芸術家・作家たちもいた。そこに、画家で詩人の竹久夢二がアメリカからやってきた。夢二と言えば、大正ロマンの水彩美人画や「宵待草」で知られる。しかし彼の出発点は初期社会主義の『直言』『平民新聞』挿絵画家で、荒畑寒村と同居し、社会運動と接点をもっていた。関東大震災で美人画や絵葉書が売れなくなり、震災被害のリアルなペン画スケッチを残し、榛名湖畔に産業美術研究所創設を構想した。
夢二は1931年アメリカに旅立ち、32-33年はドイツに滞在した。カルフォルニアで油絵も再開し、ベルリンでは社会民主党系バウハウスのヨハネス・イッテンの画学校で東洋画を教えた。学生にはユダヤ人が多かった。ちょうど左右の対立の中からヒトラーのナチス政権が成立した時で、彼はその目撃者となり、ユダヤ人学生をひそかに助けていた(法政大学大原社会問題研究所所蔵「藤林伸治資料」)。
筑摩書房版『夢二日記』33年3月21日に「ウクライナのボルシュ[ボルシチ]をのみにいったが2マルク80片とられる。猶太人の橄欖[オリーブ]の葉を入れたボルシュはもう食えない。ナッチに追はれて店をしめていつたのであろう。避雷針のついた鉄兜をきたヒットラアが何を仕出かすか。日本といひ、心がかりではある」(第2巻268頁)とある。「日本のハイネ」(米村正一「夢二とナチス」『本の手帖』1962年1月)とまで言えるかどうかは別として、夢二の反ナチは確認できる。
絵が戻ってきた事情、未だ未解明
夢二は帰国後まもなく台湾旅行で肺結核が見つかり信州の療養所で没するため[印刷された「台湾で没する」は誤りで訂正しお詫びします]、晩年の夢二の研究と評価、海外での作品発掘は遅れている。私はアメリカ史の袖井林二郎教授と共にドイツ時代の夢二を追い、チューリッヒでイッテン・シューレ時代の貴重なスケッチの所在を確認し、NHK「日曜美術館」に提供することができた。その過程で出てきたのが、共に「ベルリンの公園」と題する二枚の同じモデルと構図の絵が、日本に戻ってきた事情の謎である。現在は二枚とも岡山の夢二郷土美術館所蔵だが、最新の歴史家ひろた・まさきの遺作『異郷の夢二』(講談社、2023年)によっても、問題は解明されていない。
詳しくは、ウェブ上の加藤HP「ネチズンカレッジ」(https://netizen.jp)に収録した、「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年)、「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年)などで論じたが、右側の女の子が玩具を引く絵は、夢二郷土美術館では「小公園」としている。当時ベルリン大学美学生で後に昭和天皇侍従長になった徳川義寛が、おそらく夢二の滞独生活援助のために買い持ち帰った。多くの画集に収録され郵便切手にもなった左の絵は、画商の手を経ている。同じくベルリン大学学生で国崎・千田らの革命的アジア人協会で反ナチ運動に加わった八木誠三(名古屋丸栄百貨店の御曹司)か井上角太郎(在独日本商務官事務所助手で恋人はユダヤ人)から画商に渡った可能性がある。ひろた・袖井氏はコロナ禍で亡くなった。若い歴史家・美術史家の再挑戦を期待する。
こんな国際歴史探偵のこぼれ話を拾って、次回は松本清張『球形の荒野』の和平工作に関わった外交官のモデルの謎に挑戦する。
※ 掲載文のウェブ収録に当たっては、横書き用の洋数字や印刷文の訂正のほか、字数の関係で削った文の復元・補足があります。「新・本の街」読者の皆様には、ご容赦ください。




4 文化学研究科
Cultural Studies
(文化)
・カルチャーとしての社会主義(『20世紀を超えて』序論、花伝社、2001年)
・ワイマール末期在ベルリンの日本人文化人・知識人」(Ogai-Vorlesung、ドイツ語レジメ・資料、1998)
・「幻の紀元2600年万国博覧会ーー東京オリンピック、国際ペン大会と共に消えた『東西文化の融合』」(加藤哲郎監修・解説『近代日本博覧会資料集成 紀元2600年記念日本万国博覧会』、国書刊行会、2016、別冊)
・「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)
- 「『世界のトヨタ』揺籃期の企業文化」(『占領期雑誌資料体系 文学編』第3巻、岩波書店、「月報」2010年3月号)
- 「戦後時局雑誌の興亡——『政界ジープ』vs.『真相』」(関連資料、2017年7月)
(美術)
・「宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」(日露歴史研究センター編・第6回ゾルゲ事件国際シンポジウム報告集『ゾルゲ事件と 宮城與徳を巡る人々』2011年10月)(伊藤律の冤罪)
- 「島崎蓊助のセピア色と『絵日記の伝説』(桐生大川美術館『ガス燈』第53号、2002年7月10日号)
- 「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年8月)
- 「島崎藤村と日本ペンクラブ』(日本ペンクラブ『P.E.N.』第423号、2014年2月)
- 「島崎藤村・蓊助資料の寄贈に寄せて」(『日本近代文学館報』第265号、2015年5月)
- 「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年6月)
(文学)
・「ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ」(平川祐弘・牧野陽子編『ハーンの人と周辺』新曜社、2009年8月)
・「芹沢光治良と友人たち──親友菊池勇夫と『洋行』の周辺」(『国文学 解釈と鑑賞、特集 芹沢光治良』第68巻3号、2003年3月)
・「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)
・『「飽食した悪魔」の戦後ーー731部隊・二木秀雄と「政界ジープ」』(花伝社、2017年5月)
(音楽)
「大正生れの歌」探索記(2018年版)
(映画)
・「岸惠子主演『真珠湾前夜』が可能にした学術的ゾルゲ事件研究」(みすず書房HP「トピックス」2023年5月)
(演劇)
・国境を越える夢と逆夢(インタビュー、1994、岡田嘉子と杉本良吉の越境)
- 「コミンテルンと佐野碩」(菅孝行編『佐野碩 人と仕事(1905−1966)』藤原書店、2015年12月)
- 亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(The Art Times, No.3, October 2011)
- 菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)
・「疑心暗鬼の国が生んだ人間のドラマ」(静岡県舞台芸術センター『劇場文化』9号 、2009年6月)

今後の予定(不定期、順不同)
●島崎藤村と岡本かの子
●松本清張と崎村茂樹
●勝本清一郎と島崎蓊助
●村山知義と千田是也
●坂倉準三と山口文像
●アグネス・スメドレーと石垣綾子
●岡田嘉子と杉本良吉
●佐野碩とフリーダ・カーロ
●宮城与徳と安田徳太郎
●木下順二と中野好夫
●石川啄木と宮澤賢治
●尾﨑秀実と太宰治
●リヒアルト・ゾルゲとアイノ・クーシネン、ほか