


■加藤講演「『国際歴史探偵』の20年」


第四回 (『本の街』2026年2月号掲載)
宮本百合子の「こわれた鏡」に映った「日本のソルジェニツイン」勝野金政
● 私は『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)の終章で、1937年冬の杉本良吉・岡田嘉子のソ連への越境が、宮本顕治の「指令」に導かれた「こわれた鏡の偏向」であった、とまとめた。刑法犯で「獄中12年」の共産党指導者宮本顕治も、その妻の作家宮本百合子も、スターリン粛清最盛期のソ連について、「こわれた鏡」による歪んだ認識しかできず、信仰告白するしかなかった。



● 作家宮本百合子が、獄中の夫・宮本顕治の求めに応じて「中条百合子」の筆名から戸籍と同じ作家名に変えたのは、生成AIによると、1937年10月のことだった。
純文学からプロレタリア文学への転換の決意表明といわれ、その最初の評論が「こわれた鏡」であった。『帝国大学新聞』37年10月11日号のアンドレ・ジイド『ソヴエト旅行記』、『ソヴエト紀行修正』への批評である。『宮本百合子全集』第11巻所収だが、ウェブ上の「青空文庫」で簡単に読める。
ジイド『ソヴェト旅行記』への百合子の反発
● 「青空文庫」は、著作権が消滅した作品を無料で提供している。百合子の「こわれた鏡」は「ジイド知性の喜劇」と副題され、ジイドの『ソヴェト旅行記』『紀行修正』は、「悪意を底にひそめた感情の鋭さや、その感情を彼によって使い古されている切札である知力や統計の力やによって強固にしようと努力している姿において彼のこれまで書いたどの文章よりも悲惨である」「かつて或る才能を証明し得た作家が、歴史の本質を把握し得ないために、どんなに猛烈な自己分解を行うものであるかという、深刻な典型」で、ジイド(ジッド)の体験的ソ連批判を「幻滅した主観の上」にたつ「歴史の本質を把握しえない」「素朴なデゴギー」とする。
ジイドの旅行記を「芸術家の死命を制する人間的叡智の根源において、歴史の相貌の質的相異の知覚を失っているばかりか、それを自ら恐怖しもしないというのは、何という憤ろしい一つの喜劇であるだろう」と、「悲劇」でなく「喜劇」とするのも、かつて湯浅芳子と一緒にブルジョア令嬢として1927−30年のソ連を体験した百合子の、37年段階での知性の劣化である。
ジイド自身は、ソ連の「画一主義」を批判し、「私は党よりも真実の方を好む」と明言していた。



● 同じ青空文庫で、この批評のもとになった『文藝春秋』37年2月(中条百合子名で書かれた)「ジイドとそのソヴェト旅行記」も読める。百合子は、もともとジイドがソ連を支持しソ連に招待されて旅行したのに、批判的な旅行記を書いた「転向」「変節」を批判した。
● 同時期の『文芸首都』37年12月「明日の言葉」には、「ジイドの『ソヴェト旅行記』は、この作家が彼の主観の角度にしたがってソヴェトから何をどう見て来たかというそのこと自体を、現代文化の崩壊的な一つの現実の姿として眺めるために役立ちはするが、ソヴェト生活のルポルタージュであると云えない」という。
● 日中戦争期の日本で、ちょうど南京事件の頃である。百合子は日本共産党員の大量「転向」やソ連の粛清裁判報道を知りながら、スターリンのソ連への忠誠と、刑法犯でありながら獄中「非転向」を貫く夫・宮本顕治を擁護し、信頼し続けた。職業的夫婦別姓を捨ててまで「こわれた鏡」にしがみついたのは、ジイドではなく百合子であった。ソ連の崩壊した今日から見れば、ソ連の現実から目をそらした信仰告白・盲信であり、ロマン・ロランには共感し、日中文学交流に取り組むなど、善意で生真面目なだけに、無残な言説として公衆の面前に残された。
「日本のソルジェニツィン」勝野金政のラーゲリ文学



● 宮本百合子が、同時期に同じ論理で批判した、日本人の作家がいた。ジイドと同様に、当時のソ連の真実を曝いた元片山潜私設秘書・勝野金政である。
● パリ大学留学中に、日本共産党ではなくフランス共産党に入り、国外追放でモスクワに入った。片山潜の晩年にソ連で「スパイ」と疑われ、ラーゲリ生活を体験した、スターリン体制告発の先駆者であった。1934年に日本大使館の助けで奇跡的に帰国し、34年『故片山潜秘書勝野金政手記』(日露通信社出版部)、『赤露脱出記』(日本評論社)、35年『ソヴェト・ロシヤ今日の生活』(千倉書房)、36年『二十世紀の黎明』(第一書房)に続いて、250枚の小説『モスクワ』を『文藝』37年8月に発表した。
● 当時の日本評論社の担当編集者は石堂清倫、改造社『文藝』の編集主任は、後にシベリア抑留を体験し宮本家の親族になる高杉一郎だった。戦後は故郷の南木曾に戻り製材業、『凍土地帯』(吾妻書房、1977年)が勝野金政の自伝風集大成である。未公刊の長編遺稿「白海は怒号する」も遺されている。
● 勝野金政の数奇な生涯を、私は『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)で発掘し、宮本顕治の「こわれた鏡」により杉本良吉にソ連への越境を指示し、岡田嘉子を伴った「愛の逃避行」による樺太越境直後にNKVDによる検挙され、二人は別々にされて杉本の死刑、岡田の10年の投獄・収容所生活を招いた政治責任を問うた。
● 石堂清倫は、勝野を「日本のロイ・メドベージェフ」と高く評価し、山口昌男は「日本のソルジェニツィン」と呼んで、ノーベル賞作家の『収容所群島』より三〇年以上早く書かれた傑作と激賞した。
● 勝野は、4年間のラーゲリ体験後、1934年に奇跡的に帰国し、多くのドキュメンタリーと小説を残す。山口昌男によれば、芥川賞候補にもなったということで、「この時受賞していれば『赤露脱出記』もソルジェニツィンの『収容所群島』の先駆的作品として或いは記憶にとどめられたかも知れない」「スターリン主義を含むボルシェヴィズムの劣性を勝野のごとく冷静に描き得た人物は当時他にいただろうか」とまで評する。
● 山口昌男は言う。「勝野がこのような文章を書けただけで、帰国後、東京外語大学のロシア語、或いは大阪のそれの教授職に任じられる力の持主であったことを示している。当時の日本は、このように有為な人物を適当な位置につけて生かすというシステムをもっていなかった」(『新潮』2001年10月・12月)。
百合子の「こわれた鏡」による勝野金政・佐藤春夫批判



● 勝野金政を評価できなかったのは、アカデミズムだけではなかった。宮本百合子は、ジイドの「こわれた鏡」と同じ頃に、勝野の小説を「小説以前」と酷評した。勝野を推薦した佐藤春夫の「作家」としての資質をも疑った。
● 百合子は、『東京日日新聞』37年7月「近頃の話題」で、「勝野金政という人物の『モスクワ』という作品は芸術品として見た場合、芸術以前のもの」と、勝野がラーゲリで体験した現実そのものを虚構とした。
● 「『作家』という名詞の内容」と題して曰く、「やはり『文藝』の8月号を見ていて感ずることであるが、雑誌の編輯というものも、面白いような妙なようなものである。……、創作の頭には勝野金政という人物の『モスクワ』という二百五十枚の小説がのっている。」「『モスクワ』という作品は芸術品として見た場合、芸術以前のものであり、読者の大部分に直ぐ誰とうなずけるような歴史的な人物などを配置して、しかもそれが、では、どこまで報告的確実さがあるかというと、その点では小説の方へずり込んでぼやけるような安心を与えない効果をもっている。『作家クラブ』『清党される日』『病室の独裁者』とかいう小題が付せられている章も、ゲ・ペ・ウに呼びつけられた時の描写や何かと混っているのである。
編輯後記には、ソ連に数年滞在した若き作家と紹介されている。筆の立つ人であるらしく、数年前或る役所からこの人の名で独特なパンフレットが出ていたような覚えがある。いろいろを考えると、『作家』という名詞の包括力の大さに、慨歎せざるを得ないわけである。」
● ここにでてくる『文藝』8月号「編集後記」の現物が、信州南木曾の勝野家に残されていた。小川五郎=後の高杉一郎の筆になるかは確定できないが、文壇の「新しい風」として、「勝野氏はソ連に数年滞在の後帰れる若き作家、そのみずみずしい筆力は、希に見る清新な描写力と溌剌とした構成力示している」と作家としての力量を一緒にデビューした伊藤整と共に認め、その素材であるソ連の現実についても「ソ連の嵐は世界を戦慄させた」と評していた。日中戦争期でも、文学者・編集者の壊れていない鏡には、ジイドや勝野の表現がリアルに見えていた。見えないのは、百合子の「党派性」の眼鏡によるものだった。
● 直後の『中外商業新報』「文芸時評」には、「春夫の苦肉」と題して、「昨今、ジャーナリズムに反映している面だけを見てもソヴェト同盟に関する興味というものは実に異常なたかまりを見せている。……ジャーナリズムのこの流行の潮にのって『文藝』八月号に勝野金政なる人物の『モスクワ』という一文がのっている。勝野金政という署名で嘗て妙なパンフレットが書かれた事実は世間周知である。『モスクワ』は小説として発表されており『文藝』の編輯者はモスクワかえりの『作家』として紹介しているのであるが、作家というのは何でも彼でも文字を書くものを総てひっくるめて呼ぶ名ではないのである。佐藤春夫氏は……ジャーナリズムが社会的効果に対して無責任であることを指摘しているが、もし現在のジャーナリズムにそのような弱いところがなかったならば同氏によって『文藝』に推薦されたと仄聞する勝野金政の小説などは、烏滸がましくも小説として世間に面をさらす機会はなかったのである。」
「或る作家が未熟で、下手で書きそこなった小説というのとは別の、本来作家でない他の何ものかであるものの書きものを、小説として買い、それをジャーナリズムに押しつける佐藤氏の人間的態度は腑に落ち難い」と佐藤春夫の「作家」としての資質まで「羊頭狗肉」として問題にする。
● 21世紀の今日から見れば、ソ連崇拝とスターリン主義に毒された宮本顕治・百合子夫妻の手鏡こそ、こわれて曇り、歪んでいだ。かつて「多喜二・百合子賞」というプロレタリア文学の文学賞があった。それはソ連崩壊後の2005年で廃止されたが、それを「歴史の後知恵」というだけでいいのだろうか。
インターネット時代の「青空文庫」や生成AIは、共産党の「鉄の規律」や「文学の党派性」を、あっさりと打ち砕いてしまった。
(参考)
- 勝野金政生誕100周年記念シンポジウム
- ヴィクトーリア手記の教えるもの(『山本正美治安維持法裁判陳述集』解説、新泉社2005年7月刊)
- ソ連は「奴隷包摂社会」でなかったか?(エッセイ、1999)
- 国境を越える夢と逆夢(インタビュー、1994)
- The Japanese Victims of Stalinist Terror in the USSR(旧ドイツ・マンハイム大学の『歴史的共産主義研究年鑑』1998年版収録独文論 文の英語オリジナルソ連在住日本人粛清物語、英語版,1998)
- 「歴史における善意 と粛清」『季刊 窓』第19号、1994年






第三回(『新・本の街』2026年1月号掲載)
ゾルゲと福本和夫の
ドイツでの一期一会


● 写真は、歴史の一瞬を切り取り保存する。複写すれば、世界に広がる。フランクフルト学派のヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』(1936年)で、古典芸術の唯一性「アウラ」の喪失、礼拝的価値から展示的価値へのシフトを説いた。
● この洞察を、フランクフルト学派自身の歴史に適用して、その創設神話を修正した、二枚の写真がある。そこには、関東大震災後の日本で一世を風靡した「福本イズム」の福本和夫と、太平洋戦争開始前夜に日本で捕まり死刑に処された、ソ連スパイのドイツ人リヒアルト・ゾルゲが関わっていた。
フランクフルト学派を産んだ研究集会とは?
● マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノからユルゲン・ハーバーマス、クラウス・オッフェにいたるフランクフルト学派批判理論の起源は、学生ならすぐに参照するウェブ上の百科事典、日本語版ウィキペディアには(2025年10月現在)、「1922年夏、ドイツ・テューリンゲン州のイルメナウで第1回マルクス主義研究集会が開催された。主催者はフランクフルト大学のフェリクス・ヴァイルで、この会議の主なる目的はマルクス主義の新潮流を模索することであり、一週間に渡る会議においてはマルクス主義に関する話題が議論された」とある。
● 英語版Wikipediaにも同様の記述があり、主たる参加者はゲオルグ・ルカーチ、カール・コルシュ、カール・ヴィットフォーゲル、フリードリヒ・ポラクとされている。日本語版に出てくる福本和夫とゾルゲの名はない。
● ドイツ語版には、研究集会の記述がなく、ヴァイルによる1924年フランクフルト社会研究所設立から、エーリヒ・フロム、ヴァルター・ベンヤミン、フランツ・ノイマン、ヘルベルト・マルクーゼらの流れが語られる(ただし、ドイツ語版ウィキペディアには、Marxistische Arbeitswoche が別項目で出てくる)。
ウィキペディア日英版の開催年・場所は誤り
● このウィキペディア日本語版・英語版の創設時の記述には、誤りがある。「1922年夏イルメナウ」というマルクス主義研究集会(研究週間、労働週間ともいう)は、実は「1923年5月ゲラ(ゲラベルグ、ゲーラ)」であった。
どちらも、戦後にアメリカで書かれたフランクフルト学派研究の定番、マーティン・ジェイ『弁証法的想像力』1973年英語初版本(邦訳1975年、みすず書房)に依ったためである。それは、ジェイ自身が、同書の第二版(1996年)で訂正している。だが、日英ウィキペディアでは、初版の誤りが踏襲されたままである。
● この一回限りの研究集会の決定的証拠が、二枚の集合写真である。後のフランクフルト学派には直接関わらない二人の若者、ゾルゲと福本和夫の写影から、真実が見つかった。
福本和夫が撮影した上の写真

● 上の写真は、ドイツで1980年代には流布していた研究集会の集合写真で、国際的によく知られたものである。
下の写真は、日本で福本和夫研究で知られるようになったものである。

二枚の写真は、合宿に参加していたヘッダ・コルシュ夫人からドイツのコルシュ研究者ミヒャエル・ブクミラーが入手し、存命中だった福本和夫にも届けられた。
● 一見して同じ日の同じ場所で同時に撮られた写真で、上の写真は福本和夫が撮影し、下の写真は福本の位置にいたドイツ人の若者が代わってシャッターを押した。
● 福本がシャッターを押した上の写真は、長くフランクフルト大学のホームページに掲げられていた。国際的スタンダードである。
上の写真に写っているのは、左からヘーデ・グンペルツ、フリートリヒ・ポラク(法学者)、エドアルト・ルートヴィヒ・アレクザンダー、コスタ・ツェトキン[クララ・ツェトキンの息子]、ゲオルグ・ルカーチ、ジュリアン・グンペルツ、リヒアルト・ゾルゲ、カール・アレクザンダー(息子)、フェリクス・ヴァイル、氏名不詳、と解読されている。
前列で座っているのは、左から、カール・アウグスト・ヴィットフォーゲル(地政学者)、ローザ・ヴィットフォーゲル、氏名不詳(福本和夫の映った写真の撮影者)、クリスティアネ・ゾルゲ(ゾルゲ夫人)、カール・コルシュ、ヘッダ・コルシュ(二枚の写真の提供者)、ケーテ・ヴァイル、マルガレーテ・リッサウエル、ベラ・フォガラシ、ゲルトルート・アレクザンダー、という顔ぶれであった。
● 主だったマルクス主義者は夫婦で出席し、ローザ・ルクセンブルグ主義者でドイツ共産党員だったゾルゲは、最初に結婚した妻クリスティアネと、一緒に写っている。翌1924年6月、カール・グリュンベルグを所長に社会研究所が設立される母体になった。
ゾルゲは、ポラクと共に所長助手となったが、翌1925年、コミンテルン指導部にスカウトされて、モスクワに移りソ連共産党に転籍、後に赤軍情報部(GRU)の諜報員となる。
● ただし、1930年代の日本では、治安維持法で獄中14年の日本共産党指導者福本和夫と、ドイツ共産党からソ連へと転籍して赤軍諜報員となり来日したゾルゲが、交わることはなかった。二人は思想的にはごく近くにいたのだが、実際に交差したのは、1923年5月ドイツでの一期一会のみであった。



二枚の写真と八木紀一郎による歴史的集会の特定
● 福本和夫の入った下の写真は、『運動史研究』第13号の福本和夫特集(1984年)以降、日本ではルカーチ、コルシュと福本、ゾルゲが一堂に会した歴史的写真として知られるようになった。
● 「1922年夏イルメナウ」というマーティン・ジェイがヴァイルから得た当初の日付と場所は、その時期ゾルゲは党活動中でテューリンゲンにおらず、福本和夫もイギリス旅行中だったと証言して否定された。
旧東独から、党活動と学者への狭間で揺れていたゾルゲが事務局として出した、1923年5月付招待状が見つかり、ゲラの合宿ホテルも特定された。アメリカのジェイもこれらを認め、1996年の原書第二版注で訂正したが、その邦訳はない。
● 今日のドイツ語版ウィキペディアでは、 Felix Weil の項目から入るとMarxistische Arbeitswocheの項とリンクされており、そこに福本和夫がシャッターを押した上の写真が掲載されて、「第1回マルクス主義労働週間は、1923年5月20日から聖霊降臨祭の8日間、テューリンゲン州アルンシュタット近郊のゲラベルクで開催された会議。会場は、共産主義者フリードリッヒ・ヘネが経営する駅ホテル。参加者には、著名なマルクス主義者や共産主義者が名を連ねた」と、最新の研究水準で綴られている。
● 上の福本がシャッターを押した国際的スタンダードの写真は、⽇本のゾルゲ事件研究を牽引してきた⽩井久也・渡部富哉らの⽇露歴史研究センターが、2003 年10 ⽉に機関誌『ゾルゲ事件関係外国語⽂献翻訳集』を創刊するにあたって、その創刊号の表紙に採用した。
● こぶし書房は、『福本和夫著作集』全10巻を公刊する際、福本とゾルゲの入った1923年5月「マルクス主義研究週間」(於ドイツ・ゲラベルク)参加者の写真を、ホームページに発表した。
2011年5月の『福本和夫著作集完結記念の集い』で、八木紀一郎は、参列者への「お土産」として、2枚の写真を一緒に披露し、私も寄稿した『報告集』に収録された(2011年10 月発行、こぶし書房)。



● これら全体の謎を、最終的に明らかにしたのは、福本和夫の存命中に写真を入手し、『運動史研究』に発表した八木紀一郎である。
八木は、社会研究所創立百年を前に、『20世紀知的急進主義の軌跡――初期フランクフルト学派の社会科学者たち』(みすず書房、2021年)を著し、第9回経済学史学会賞(2025年)を受賞した。
● そこでは、ゾルゲはスパイとしてではなく、ドイツ共産党の実践活動に加わりつつも社会研究所所長助手に抜擢された、すぐれた経済学研究者として、福本和夫も、留学中にドイツ語教師コルシュに誘われ参加した「一人の日本人」として、詳しく扱われている。
● 『マルクス主義と哲学』『カール・マルクス』で知られる非ロシア的主体性哲学者コルシュは、福本ばかりでなく、日本人に個人教師としてドイツ語を教える、名家庭教師であった。コルシュを通じて福本は、当時の最新のマルクス主義理論を学び日本に紹介したが、福本以降も、新明正道、杉本栄⼀、⼤熊信⾏、服部英太郎ら⽇本のマルクス主義の基礎を築いた⼈びとが、ドイツ留学中にコルシュのもとで学んでいる。
● ウィキペディア日英版の誤った記述は、訂正されなければならない。
(参考)「福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)
『新・本の街』2026年1月号掲載

第二回(『新・本の街』12月号掲載、完全版)
松本清張『球形の荒野』のモデルは「亡命者」崎村茂樹か
● 松本清張『球形の荒野』は、数ある清張の推理小説の中でもポピュラーな作品だ。国会が安保闘争で揺れた1960-61年『オール讀物』連載、62年単行本刊行直後にテレビドラマになり、以後も2014年まで8回もテレビに、75年には松竹で映画にもなった。



中国語訳は「日本を裏切った日本人」
● 中国語に訳されて、中国でもベストセラーになった。ただしそれは、2012年以降のことで、当初の題名直訳の中国語版は売れなかった。タイトルを『日本を裏切った日本人』と変えたことで、急速に広まった(加藤「国際情報戦としてのゾルゲ事件」、蘇智良編『左尓格在中国的秘密使命』上海社会科学院出版社、2014年、「ゾルゲ事件」上海国際会議報告)。
● あらすじは、この中国語版タイトルが明解に示している。ただし、ゾルゲ事件の尾﨑秀実と同様に、軍国日本への裏切りは売国か愛国かで、評価は分かれる。
「歴史探偵」のご本家・半藤一利は、文春文庫版で「芦村節子は旅で訪れた奈良・唐招提寺の芳名帳に、外交官だった叔父・野上顕一郎の筆跡を見た。大戦末期に某中立国で亡くなった野上は独特な筆跡の持ち主で、記された名前こそ違うものの、よもや? という思いが節子の胸をよぎる。節子の身内は誰も取り合わないが、野上の娘の恋人・添田彰一は、ある疑念をいだく‥‥停戦工作の裏事情と一外交官の肉親への絶ちがたい情愛が交錯する国際謀略ミステリーの傑作」と激賞する。
どうやら松本清張は、戦争中に敵国と秘かに通じた野上を、「愛国者」と考えたようだ。
● ただし、清張も故半藤一利も、野上のモデルを特定していない。確かに戦時中に国外で秘かに和平工作を試みた日本人は、スウェーデンの岡本季正・小野田信・伊奈一、ドイツの崎村茂樹・酒井直衛・近衛秀麿、スイスの藤村義一・笠信太郎・笹本駿一・加瀬俊一・岡本清福・北村孝二郎・吉村侃、バチカンの富沢孝彦・原田健、ポルトガルの井上益太郎、中国の田村真作など、濃淡は異なるが、名を挙げることができる。中には敗戦後日本に帰国しなかったものもいる。
清張は「亡命者」崎村茂樹を知らなかった
● この謎について、崎村茂樹を研究する私は、インタビューを受けた。北九州松本清張記念館『松本清張研究』第13号(2012年)に、こうある。
「野上顕一郎のモデルは誰か? ダレス工作に関わった『加瀬俊一と岡本清福と北村孝次郎を足して3で割った人物』というのが妥当な線であろう。ところが最近、新たなモデル候補が浮上してきた。名前を崎村茂樹という。
崎村茂樹の情報に詳しい一橋大学の加藤哲郎教授によると、崎村は1909年生まれ、気鋭の農業経済学者[東大講師]だった。戦時中は、ドイツ[の日本]大使館嘱託、[鉄鋼統制会調査員]として、鉄鋼事情の調査分析を担当していた。
その彼が『1943年暮れに、日本の右翼黒龍会とドイツのゲシュタポの弾圧を恐れてスウェーデンに亡命』したことが、連合国側の新聞やラジオで報道された。
その後44年5月にドイツに連れ戻されるが、ドイツ敗戦後はシベリア経由で満州に移り、中国に10年滞在、帰国したのは、日本を出てから15年後の1955年のことだった。留守家族にとっても、文字通り『帰ってきた亡霊』であった。
崎村については、これまで国内で全く知られておらず、「『球形の荒野』執筆当時、清張が彼のことを知っていた可能性はきわめて低い」と加藤教授は言う。しかし、海外帰国者から彼の情報を小耳にはさんだ可能性も全くゼロとは言えない。真相は謎に包まれたままである。」



1944年5月の『ニューヨーク・タイムズ』に「初めて連合国に加わろうとした日本人」と大きく報じられた崎村茂樹の「亡命」は、謎が多い。米国CIAの前身OSS(戦時情報局)在欧日本人監視資料、ドイツの『ゲッペルス日記』にも出てくる。
私は「情報戦のなかの『亡命』知識人ーー国崎定洞から崎村茂樹まで」(『インテリジェンス 』誌9号、2007年)のなかで、「若き崎村茂樹は、リベラル左派か、親ナチ右派だったのか?」「崎村茂樹は、なぜスウェーデンに『亡命』したのか?」「崎村茂樹『亡命』は、連合軍との『和平工作』を意味するか?」「いったん『亡命』した崎村茂樹は、なぜベルリンに戻り、ドイツ敗戦をいかに迎えたか」「1945年5月ドイツ敗戦で、崎村茂樹はなぜ日本に戻らず、中国に向かったのか?」「1945年9月以降、崎村茂樹はなぜ中国に入り、何をしていたのか?」を「六つの謎」として挙げ、問題提起した。
● その後、国会図書館憲政資料室で公開された連合軍接収在独日本大使館資料中に「崎村茂樹ファイル」が見つかり、スウェーデン国立公文書館などで新たな資料を探索し、2本目の論文を書いた。「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」と題した雑誌『未来』への寄稿で、彼のスウェーデン亡命中の接触相手が、戦後ノーベル賞受賞者ミュルダール夫妻や亡命中の戦後西独首相ブラントらの社会民主主義「小インターナショナル」と関係したことまでを書いた(田中浩編『リベラル・デモクラシーとソーシャル・デモクラシー』未来社、2013年)。
● ただし、ドイツ敗戦時のシベリア鉄道経由旧満洲国入国とその後の新中国での10年間がよくわからないため、単行本にはしていない。日本で一時報じられた1950年毛沢東暗殺未遂事件への関与は誤報であった。
● 21世紀に発覚した崎村茂樹「亡命」問題について、松本清張が関心をもった形跡がないので、『松本清張研究』第13号のインタビューでは、『球形の荒野』執筆時の清張は崎村を知らず、モデルではなかったろうと答えた。
ただし、その後の研究で、もしかしたらという、一つの接点が見つかった。それは、荒木光子という、戦後占領期に活躍した三菱財閥令嬢への、早くからの松本清張の注目である。
未完の小説のヒロイン荒木光子が、崎村茂樹と松本清張を結ぶか?
● 荒木光子は、崎村茂樹を農学部講師に登用した東大教授荒木光太郎の夫人で、松本清張は『球形の荒野』と同じ頃の『婦人公論』1960年11月号に「占領『鹿鳴館』の女たち」を書いている。
戦後日本のGHQのパーティで、日本側は旧華族など「良家の子女」を動員して連合国軍幹部を「接待」した。民主化を進めるGSケーディス大佐と子爵夫人鳥尾鶴代の関係はよく知られているが、それを告発して「逆コース」を招いた反共G2ウィロビー少将の「東京妻」と噂されたのが、三菱財閥荘家の令嬢・荒木光子であった。彼女にも清張は注目した。しかし、ウィロビーや荒木光子の資料は、清張の生前にはほとんど入手できず、単行本には書けなかった。



● 戦前から在日各国大使館の舞踊会の華であった荒木光子には、経済学者である夫・荒木光太郎の助手であった「語学の天才」崎村茂樹が、通訳としてつきそっていた。戦後は、崎村が1955年に帰国するまで、荒木光子はウィロビーお気に入りのG2歴史課相談役として、戦犯告発・公職追放・再軍備や、G2の謀略にも辣腕をふるった。
● 崎村茂樹は55年に日本帰国後、拓殖大学教授から東京理科大学教授、八幡製鉄嘱託となり、荒木光子と共に欧州旅行にもでかけたが、松本清張は、それらを知らなかっただろう。
ようやく21世紀になって、阿羅健一『秘録・日本国防軍クーデター報告』(講談社、2013年)、よリ学術的な美術史家・北原恵「松本清張、未完の仕事:荒木光子の戦中・戦後」(北九州市立松本清張記念館、2020年)が現れた。
野上顕一郎のモデルは、相変わらず、謎のままである。
● 崎村茂樹については、本サイトの以下を参照。
- 「情報戦のなかの『亡命』知識人ーー国崎定洞から崎村茂樹まで」(20 世紀メディア研究所『インテリジェンス 』誌第9号、2007年11月)
- 「日独同盟に風穴をあけた日本人<崎村茂樹>探索」」
- 「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの 記録から」(田中浩編『リベラル・デモクラシーとソーシャル・デモクラシー』未来社、2013年1月、所収)



第一回 (『新・本の街』11月号掲載、完全版)
竹久夢二の描いた二枚の「ベルリンの公園」の入国経路の謎


(「新・本の街」11月号掲載文)
竹久夢二の二枚の「ベルリンの公園」
加藤哲郎(一橋大学名誉教授・政治学)
● 自分で名乗ったわけではないが、「国際歴史探偵」と呼ばれて30年になる。そこで見つけた現代史の謎のいくつかを、本連載で書いていきたい。
旧ソ連・秘密文書公開が発端
● きっかけは、1989-91年、ソ連・東欧社会主義の崩壊だった。旧ソ連の秘密文書が公開されたので、モスクワに出かけた。もともと医師・川上武や俳優座の千田是也らと共に探求してきた、国崎定洞の記録を収集するためだった。元東大医学部助教授で、ドイツに留学中に共産主義運動に加わり、ナチスの政権掌握で日本に戻らずソ連に亡命した国崎の、38年客死の謎を追った。予想通り、当時猛威をふるったスターリン粛清の一環で、「日本のスパイ」という荒唐無稽な冤罪による銃殺刑だった。
● 予期できなかったのは、それが同じ日本からの亡命共産主義者・山本懸蔵による密告、戦後日本共産党議長の野坂参三の黙認によることだった。そのことを示す文書がみつかり、当時モスクワ・レニングラード等に散在した約100人の旧ソ連在住日本人が、仲間内の疑心暗鬼で軒並み粛清されたことを知った(加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、同『国境を越えるユートピア』平凡社、2002年)。
● ソ連から国外追放になった演劇の佐野碩・土方与志らは幸運な方で、無傷で生き残ったのは野坂参三だけであった。国崎定洞が粛清された理由を探ると、ヒトラー政権掌握期のドイツで、国崎と千田が中心となったドイツ共産党日本人部、その指導下の革命的アジア人協会に行き着いた。当時の共産党は、コミンテルン=世界共産党の支部であり、国崎も千田も、日本では共産党員でなかった。ベルリンからモスクワに亡命した国崎が、日本共産党労働者代表山本懸蔵に「スパイ」と疑われたのは、東大卒のエリート「インテリ」医師で、日本での党歴・活動歴がなかったためであった(加藤『ワイマール期ベルリンの日本人』岩波書店、2008年)。



ベルリンに現れた画家・竹久夢二
● ナチスに抵抗した国崎・千田の周辺に、佐野碩・藤森成吉ら在独芸術家・作家たちもいた。そこに、画家で詩人の竹久夢二がアメリカからやってきた。夢二と言えば、大正ロマンの水彩美人画や「宵待草」で知られる。しかし彼の出発点は初期社会主義の『直言』『平民新聞』挿絵画家で、荒畑寒村と同居し、社会運動と接点をもっていた。関東大震災で美人画や絵葉書が売れなくなり、震災被害のリアルなペン画スケッチを残し、榛名湖畔に産業美術研究所創設を構想した。
● 夢二は1931年アメリカに旅立ち、32-33年はドイツに滞在した。カルフォルニアで油絵も再開し、ベルリンでは社会民主党系バウハウスのヨハネス・イッテンの画学校で東洋画を教えた。学生にはユダヤ人が多かった。ちょうど左右の対立の中からヒトラーのナチス政権が成立した時で、彼はその目撃者となり、ユダヤ人学生をひそかに助けていた(法政大学大原社会問題研究所所蔵「藤林伸治資料」)。
● 筑摩書房版『夢二日記』1933年3月21日に「ウクライナのボルシュ[ボルシチ]をのみにいったが2マルク80片とられる。猶太人の橄欖[オリーブ]の葉を入れたボルシュはもう食えない。ナッチに追はれて店をしめていつたのであろう。避雷針のついた鉄兜をきたヒットラアが何を仕出かすか。日本といひ、心がかりではある」(第2巻268頁)とある。「日本のハイネ」(米村正一「夢二とナチス」『本の手帖』1962年1月)とまで言えるかどうかは別として、夢二の反ナチは確認できる。



絵が戻ってきた事情、未だ未解明
● 夢二は帰国後まもなく台湾旅行で肺結核が見つかり信州の療養所で没するため[『本の街』に印刷された「台湾で没する」は誤りで、お詫びし訂正します]、晩年の夢二の研究と評価、海外での作品発掘は遅れている。私はアメリカ史の袖井林二郎教授と共にドイツ時代の夢二を追い、チューリッヒでイッテン・シューレ時代の貴重なスケッチの所在を確認し、NHK「日曜美術館」に提供することができた。その過程で出てきたのが、共に「ベルリンの公園」と題する二枚の同じモデルと構図の絵が、日本に戻ってきた事情の謎である。現在は二枚とも岡山の夢二郷土美術館所蔵だが、最新の歴史家ひろた・まさきの遺作『異郷の夢二』(講談社、2023年)によっても、問題は解明されていない。
● 詳しくは、私の『ワイマール期ベルリンの日本人』のほか、ウェブ上の加藤HP「ネチズンカレッジ」(https://netizen.jp)に収録した、「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年)、「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年)などで論じたが、右側の女の子が玩具を引く絵は、夢二郷土美術館では「小公園」としている。
● 当時ベルリン大学美学生で後に昭和天皇侍従長になった徳川義寛が、おそらく夢二の滞独生活援助のために買い持ち帰った。多くの画集に収録され郵便切手にもなった左の絵は、画商の手を経ている。同じくベルリン大学学生で国崎・千田らの革命的アジア人協会で反ナチ運動に加わった八木誠三(名古屋丸栄百貨店の御曹司)か井上角太郎(在独日本商務官事務所助手で、恋人はユダヤ人)から画商に渡った可能性がある。ひろた・袖井氏は、コロナ禍で亡くなった。若い歴史家・美術史家の再挑戦を期待する。
● こんな国際歴史探偵のこぼれ話を拾って、次回は松本清張『球形の荒野』の和平工作に関わった外交官のモデルの謎に挑戦する。
※ 掲載文のウェブ収録に当たっては、横書き用の洋数字や印刷文の訂正のほか、字数の関係で削った文の復元・補足があります。「新・本の街」読者の皆様には、ご容赦ください。

● 「ネチズンカレッジ」移転・改築に当たって、東京神田・神保町・御茶の水の地域交流タウン誌『新・本の街』 とタイアップして、「国際歴史探偵の書斎から」と銘打ち、この間の現代史・インテリジェンス研究の未解決の謎を連載することにしました。主に留学・出張・外遊・洋行・探検・亡命などで海外に出た日本人の、文化・芸術関係の歴史にまつわる問題を、エッセイ風に書き残します。
● 詳しくは、以下のいくつかのエッセイなどで論じてきましたが、最近出された歴史家ひろた・まさきさんの遺作『異郷の夢二』(講談社、2023年)によっても、問題は解決していません。
「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年8月)
「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年6月)



● 以下のサイトもご参照ください。
10月8日 『新・本の街』2025年11月号に掲載されました。







4 文化学研究科
Cultural Studies
(文化)
・カルチャーとしての社会主義(『20世紀を超えて』序論、花伝社、2001年)
・ワイマール末期在ベルリンの日本人文化人・知識人」(Ogai-Vorlesung、ドイツ語レジメ・資料、1998)
・「幻の紀元2600年万国博覧会ーー東京オリンピック、国際ペン大会と共に消えた『東西文化の融合』」(加藤哲郎監修・解説『近代日本博覧会資料集成 紀元2600年記念日本万国博覧会』、国書刊行会、2016、別冊)
・「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)
- 「『世界のトヨタ』揺籃期の企業文化」(『占領期雑誌資料体系 文学編』第3巻、岩波書店、「月報」2010年3月号)
- 「戦後時局雑誌の興亡——『政界ジープ』vs.『真相』」(関連資料、2017年7月)
(美術)
・「宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」(日露歴史研究センター編・第6回ゾルゲ事件国際シンポジウム報告集『ゾルゲ事件と 宮城與徳を巡る人々』2011年10月)(伊藤律の冤罪)
- 「島崎蓊助のセピア色と『絵日記の伝説』(桐生大川美術館『ガス燈』第53号、2002年7月10日号)
- 「島崎蓊助と竹久夢二──ナチス体験の交錯』(桐生『大川美術館・友の会ニュース』第49号、2002年8月)
- 「島崎藤村と日本ペンクラブ』(日本ペンクラブ『P.E.N.』第423号、2014年2月)
- 「島崎藤村・蓊助資料の寄贈に寄せて」(『日本近代文学館報』第265号、2015年5月)
- 「ドイツ・スイスでの竹 久夢二探訪記」(『平出修研究』第32集、2000年6月)
(文学)
・「ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ」(平川祐弘・牧野陽子編『ハーンの人と周辺』新曜社、2009年8月)
・「芹沢光治良と友人たち──親友菊池勇夫と『洋行』の周辺」(『国文学 解釈と鑑賞、特集 芹沢光治良』第68巻3号、2003年3月)
・「SFとしての『原子力平和利用』」(そのyou tube版、2012年5月25日明治大学講演記録)
・『「飽食した悪魔」の戦後ーー731部隊・二木秀雄と「政界ジープ」』(花伝社、2017年5月)
(音楽)
「大正生れの歌」探索記(2018年版)
(映画)
・「岸惠子主演『真珠湾前夜』が可能にした学術的ゾルゲ事件研究」(みすず書房HP「トピックス」2023年5月)
(演劇)
・国境を越える夢と逆夢(インタビュー、1994、岡田嘉子と杉本良吉の越境)
- 「コミンテルンと佐野碩」(菅孝行編『佐野碩 人と仕事(1905−1966)』藤原書店、2015年12月)
- 亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(The Art Times, No.3, October 2011)
- 菅孝行・加藤哲郎・太田昌国・由井格「鼎談 佐野碩ーー一左翼演劇人の軌跡と遺訓(上)(下)」(『情況』2010年8・9月、10月)
・「疑心暗鬼の国が生んだ人間のドラマ」(静岡県舞台芸術センター『劇場文化』9号 、2009年6月)

今後の予定(不定期、順不同)
●島崎藤村と岡本かの子
●松本清張と崎村茂樹
●勝本清一郎と島崎蓊助
●村山知義と千田是也
●坂倉準三と山口文像
●アグネス・スメドレーと石垣綾子
●岡田嘉子と杉本良吉
●宮本百合子と勝野金政
●佐野碩とフリーダ・カーロ
●宮城与徳と安田徳太郎
●木下順二と中野好夫
●石川啄木と宮澤賢治
●尾﨑秀実と太宰治
●リヒアルト・ゾルゲとアイノ・クーシネン、ほか